03

 捜査をしている会社の顧客リストを浚っている最中、すっかり親しみを覚えた名前を見つけた。
 定期的に注文されている、男性の血液。なぜ彼女がこんな物を購入しているのだろうか。住所から同姓同名の別人である可能性も消去された。他にもリストを調べていくと、何名か個人で定期的に血液を購入している顧客がいた。いずれも異性の血液を注文しているようだ。
 既に従業員の単独での犯行だと認められていたため、捜査に積極的に協力してくれている社長に話を聞いてみることにした。

「すみません、この"穂純千歳"という女性なんですが。定期的に血液を購入していますよね。何に使っているのかご存知ですか?」
「あぁ、研究に必要だと仰るのでお売りしているんですよ」

 社長は人当たりの良い笑みを浮かべてさらりと答えた。
 嘘だ。だが、この嘘はつき慣れている。何度も口にしてきたのだろう。

「研究……ですか。いえ、実は彼女と知り合いでして、彼女の職業は通訳案内士と翻訳家なんですよ。騙されているのでは?」
「それは今回の捜査と関係がありますか?」
「場合によっては。彼女がこれがないと困る状況にある……そういうことはありませんか? どうしても必要としているなら、出荷を許可する範囲を広めなければなりません」

 この購入の仕方からすると、何らかの理由で現場に残す血液が必要だというわけではないだろう。
 そもそも俺の知らないところで何かしてしまっているのなら、必ず組織の人間か赤井が絡んでいるはずだ。現場の偽装が必要なら、そちらの方が適任だ。穂純さんがわざわざ手配する必要はない。
 だとしたら、彼女がこんな物を必要とする理由はなんだ?
 考え込んだ俺を見て、社長は場所を変えることを提案してきた。
 素直に受け入れると会議室に通され、社長は自身や穂純さんの正体について語った。
 発言におかしな矛盾はなく、一貫性がある。何を質問しても、即座に返事がされた。作り話にしては、できすぎている。

「証拠をお見せしましょうか」

 社長はからりとして言った。次の瞬間、その目が赤く妖しい光を放ち始め、八重歯だと思っていた歯が鋭く伸び、顔の横に挙げられていた手の爪も尖っていった。

「これは……」
「我々がヴァンパイアだという証拠です。さぁどうぞ、目でも牙でも爪でも、お好きなように調べてください。痛みはありますがすぐに治ります。目を触られても、牙を抜かれても、爪を剥がされてもね……」

 拷問じみたことをする気にはなれず、結局社長に何度か姿を変えてもらってカラコンや作り物の牙や爪を身に着けているわけではないことを確認した。
 それだけでは足りないと考えた社長は、自らの腕に切り傷をつけて即座に治る様を見せてくれた。

「できれば、血液の販売は早めに再開したいんですよ。もう長いこと、彼らは血を飲んでいない。そろそろ飢えているはずです。出会った人間に襲いかかってしまうほどに」
「……!」

 ヴァンパイアは人知を超えた運動能力を持っている。今は衰弱しているから成人男性なら取り押さえられるだろうとも言われたが、それはつまり、相手が女子供や高齢者なら無抵抗のまま襲われるということに他ならない。

「……すぐに違和感のない範囲で規制を解除します」
「穂純さんがいつも頼んでいる物を用意しておきます。届けてあげてくれませんか」
「えぇ。……私自身、この目で確かめなければ納得できません」

 必要な手筈を整えて、あとを任せられる状態にしてから一度自宅に戻った。着替えるついでに、彼女が血に飢えているのなら何か反応を見せるだろうと、腕に切り傷を作ってガーゼで塞いでおいた。
 そうやって準備をして向かった彼女の自宅では、接触を拒むように"帰って"と繰り返された。
 玄関のドアに鍵をかけ、紙袋を床に置いた。これで身軽だ。ゆっくりと、穂純さんに近づく。

「帰って……」
「穂純さん……?」

 リビングに踏み込むと、明らかに声色が変わった。
 突き放すようなからりとした声が、懇願の色を秘めたものになる。
 穂純さんはむくりと身を起こして、被っていた毛布をソファに落とした。ゆっくりと立ち上がり、首元に手をやったままこちらを振り返る。
 陶器のような青白い肌、その顔に映える赤い瞳。食いしばっているのだろう口元からは長い牙が覗いて、首には鋭く尖った爪が突き立てられていた。
 あぁ、本当に――彼女はヒトではなかったのか。

「降谷さん……お願いだから、帰って」

 彼女の頬を伝って、涙が落ちていく。
 きっと知られたくない秘密だった。それを暴いてしまった。何も知らない振りをして立ち去るという選択をしなかった。
 ぎらついた目からは、こちらを捕食しようという意志しか感じられない。
 本能的に緊張はするが、不思議と恐ろしいとは思わなかった。
 ゆっくりと近づくと、穂純さんはびくりと肩を跳ねさせる。
 "来ないで"と言いたげに、首を横に振られる。そんな風に動いたら、首を傷つけてしまうだけだというのに。
 視線は雄弁に飢えを訴えてくる。しかし彼女は首の痛みで理性を保ち、必死で耐えている。
 袖を捲ってガーゼを剥ぎ、切り傷を見せつけた。ずっと合っていた視線が初めて逸らされる。彼女の目は腕の傷から滲む血に釘づけになっていた。
 ぎり、と首に深く爪が突き立てられる。痛いだろうに、やめようとしない。だが俺には引き下がるという選択肢はない。

「来ないで……逃げて……!」

 弱々しい声が、切ない色を乗せて発される。
 素直に従う気はない。もう一歩踏み込んで近づくと、一瞬後には赤い目が至近距離にあった。肩を掴まれ、床に押しつけられる。想像していたより弱い力だ。頭を打たないようにだけ気をつけながら、抵抗はしなかった。
 唇が戦慄いて、噛みつかないように我慢していることがわかる。視線はずっと、傷口に注がれている。

「降谷さん……っ、逃げて、抵抗して、なんで……なんで!!」

 俺を捕らえながら、"逃げて"と懇願する。本能と理性の矛盾。苦しんでも泣き叫んでも、彼女は俺に噛みつこうとはしない。
 大粒の涙が頬に落ちてくる。妖しく光る赤い瞳が、雫に映り込んでまるで血のようだった。
 肩を押さえられたまま、涙が伝った跡が残る頬にそっと触れた。温かい涙が流れても、熱を持たない彼女の頬はひんやりとしている。
 これは俺の選択の結果だ。不用意に彼女のテリトリーに踏み入れて、餌にされる。それでいい。そのつもりできた。社長から聞いた"彼女が少食だ"という話から、死ぬことはないという打算もあった。

「"なんで"はこっちの台詞だ。わざとらしく間の抜けた切り傷までこさえてきたのに……なぜ、そこまで我慢するんだ」
「ねぇ、お願いだから……、蹴り飛ばしてでも逃げて……っ。冗談で言ってるんじゃないの……!」

 冗談だったら、どれほど良かっただろうな。
 もう、見なかったことにはできない。

「断る」
「降谷さん……!」

 いっそう涙を溢れさせる穂純さんに、ここに来た経緯を話した。呆然として聞いていた穂純さんは、俺が血液を届けに来たのだと知ると、安堵したような溜め息をついた。
 彼らの存在は、世間に知られていいものではない。我慢の限界が来れば、起こした傷害や殺人事件は必ず世間で騒ぎになる。
 そうなる前に、彼らを守るべきだ。
 肩を押さえつける手の力は緩んでいた。ぽろぽろと落ちる涙はそのままに、穂純さんは眉を下げる。

「死んじゃうって……思わなかったの」
「衰弱した君なら、強くても成人男性程度だろうと社長が言っていたからな」
「……これ、舐めてもいいの」

 舐めたくて仕方がないくせに。
 どうあっても許可を取ろうとする様子がいじらしくて、つい目元が緩んだ。

「あぁ。我慢できたご褒美になるなら」

 穂純さんはおずおずと俺の腕を掴んで、赤い舌を覗かせ垂れた血を舐め取った。うっとりと細められる目を見て、まずくはないのだろうと見当をつける。ゆっくりと体を起こし、楽な体勢を取った。
 柔らかい舌が血の跡を這い、傷口へと到達した。唇が触れて、血を吸い出される。しかし元々が浅かったのか、傷口からはすぐに血が出なくなった。
 唇は離れたが、穂純さんに掴まれた腕が解放される気配はない。いい加減跨られている状況もどうにかしたいものだが、穂純さんは物足りなさそうに俺の腕を抱きしめて黙り込んでいた。

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