02

 降谷さんに告白されても応えられなかったのは、偏にわたしが人間じゃなかったからだった。
 彼のような鋭い人には、血液を購入していることもすぐに見つかってしまうと思った。
 あとから化け物だと罵られて心に傷を負って別れるより、一生知られないままいた方がずっといい。
 知られたくなかった。嫌われたくなかった。
 あの青い瞳が優しい視線を向けてくれなくなることが、ひどくおそろしかった。

「降谷さん……お願いだから、帰って」
「……っ」

 降谷さんはごくりと唾を飲んで、一歩踏み出してきた。紙袋は玄関に置き去りにしたままだ。
 どういうつもりで、近づいてくるの。
 届け物を置いて、それで帰れば良かったでしょう。今だって、近づいてくる理由はないでしょう。
 首を横に振っても、彼は退こうとはしない。それどころか徐に着ていたシャツの袖を捲って、中に隠れていたガーゼを無理矢理剥ぎ取った。
 中から出てきたのは刃物でつけられたような傷で、無理矢理ガーゼを剥がしたからか、血が滲み出てきた。
 新鮮な血。好みの異性の血。目が釘付けになって、離せない。あのバイク事故のときの比じゃない。

「来ないで……逃げて……!」

 降谷さんはわたしをまっすぐ見たまま、また一歩近づいてきた。
 ふわりと香った甘い匂いに、本能に忠実に飛びかかる。
 床に押し倒されても、肩を押さえつけられても、降谷さんは頭を打たないように受け身を取るだけで抵抗ひとつしなかった。
 血が欲しい。傷口から啜り取ってしまいたい。噛みついて、もっともっと血を流させて――お腹いっぱいになるまで、逃がしたくない。

「降谷さん……っ、逃げて、抵抗して、なんで……なんで!!」

 ぼたぼたと、涙が落ちる。降谷さんの頬を濡らしてしまう。
 降谷さんは眉をきゅっと寄せて、肩を押さえつけられたままわたしの頬に手の甲を当てた。

「"なんで"はこっちの台詞だ。わざとらしく間の抜けた切り傷までこさえてきたのに……なぜ、そこまで我慢するんだ」
「ねぇ、お願いだから……、蹴り飛ばしてでも逃げて……っ。冗談で言ってるんじゃないの……!」
「断る」
「降谷さん……!」

 手の甲の下、腕についた傷が甘美な香りを漂わせている。
 飢えに飢えた体には、くらくらするようなご馳走だ。

「捜査が入った会社の社長から密かに聞いた。初めは驚いたさ、だが赤い目や牙、爪を見せられれば信じるしかない。彼は無礼を許してくれて、カラコンや作り物の牙や爪ではないことまで確かめさせてくれた」
「……そんな」
「僕たちが思うより多く、ヴァンパイアは社会に溶け込んでいる。そんな彼らが人を襲う前に、血液の販売を許してほしいと請われたんだ。もちろん厳しいチェックは入れるが、手に入れることは難しくなくなった」
「じゃあ、届け物って……」
「血液だよ。我慢しているだろうから早く持って行ってやってほしいと頼まれたんだ」

 降谷さんは優しく笑った。
 社長にとっては、苦渋の決断だっただろう。会社を作ってまで隠し通してきた秘密を、秘密裏に違法薬物を取引した悪意ある従業員によって明かすことになってしまった。
 でも、間違っていたとは思わない。わたしのように、最初に会った人に襲いかかってしまうような状態まで追い詰められたヴァンパイアがたくさんいたら、たちまち町が地獄と化してしまう。

「死んじゃうって……思わなかったの」
「衰弱した君なら、強くても成人男性程度だろうと社長が言っていたからな」
「……これ、舐めてもいいの」

 血が腕を伝い始めた。もったいないとしか思えない。
 降谷さんは目元を緩めた。

「あぁ。我慢できたご褒美になるなら」

 肩から手を離して、ゆっくりと腕を掴んだ。爪を立てないように気をつけながら、垂れ落ちた血を舌で掬い上げる。舌に乗ったのは、糖度の高い果物の果汁のような、それでいて飽きのこない極上の甘露だった。
 流れた血を舐め取るだけでは足りなくて、小さな傷口に唇を当てる。血を吸い出して、甘い蜜で喉を潤した。
 一ヶ月近く血を飲めなかった体は、それでも足りないと訴えてくる。牙からは血液が固まらないようにする液体が出るのに、既についた傷には牙を立てられない。おまけに、獲物を長く生き続けさせるため、唾液には止血できる成分も含まれているのだ。血はすぐに止まってしまった。
 許可を取らなくちゃ、と思いながらも、手は降谷さんの腕を離す気がなかった。身を起こして腕に吸いつくわたしを見下ろしていた降谷さんは、わたしの目元の涙を掬うように撫でた。

「噛んでもいい」
「……ちゃんと抵抗してね」
「あぁ、まずいと思ったら申し訳ないが全力で投げ飛ばす」

 その言葉に安心して、傷口のそばに牙を立てた。ハリのある肌を裂く感触が心地良い。
 牙で細く傷を抉って、溢れ出た血を舐め取った。
 たっぷり血を飲ませてもらって、満足して顔を上げた。目が合った降谷さんは、はっきりとわかるほど顔から血の気が引いていた。

「ふ、ふるやさん、なんで止めなかったの……!?」
「まだいけるかと思ったんだ。あぁ、腕も痺れてるな……」
「気絶したら余計に止めるものがなくなっちゃうからやめて!」

 貧血程度で済ませられて良かった。
 もうちょっと欲しい分は、持ってきてもらった物を飲めばいい。

「それにしても……本当に力が強いんだな」
「?」
「身動ぎひとつできなかった」
「え、ごめんなさい……」

 "降谷さん、動いたの?"なんて聞くことはできなかった。
 喉の渇きも治まったし、体調も良くなった。とてもおいしかったから、気分も良い。

「随分良くなったんだな」
「うん! ごちそうさま」
「悪い、ソファを貸してもらっても?」
「もちろん。えっと、支えはいる?」
「……頼む」

 降谷さんは何とも言えない顔をして、渋々といった様子で手を借りてくれた。
 少し休んでいてもらって、持ってきてもらっていた紙袋をキッチンに運んだ。降谷さん用にお茶を淹れつつ、専用にしているコップに血を注ぐ。匂いを嗅いでみたけれど、降谷さんのものほど好みではない。
 パックに残った血はしまって、器を二つ持ってリビングに戻った。
 ソファの隣を示されて、素直に腰を落ち着ける。
 自分の分を飲んでいると、降谷さんの視線が口元に注がれた。

「……いつもそんなに飲むのか? 結構良い値段だったんだが……」
「んーん。本当は毎日ひとくち飲むぐらいで持つのよ。長い間飲んでなかったせい」
「そうか」

 降谷さんは怪我をしていない方の手でマグカップを持ち、お茶を飲んだ。

「……ひとつ、聞いてもいいか?」
「ひとつと言わず、いくらでもどうぞ。答えられることなら」
「君が僕の告白を受け入れてくれなかったのは……ヴァンパイアだからか?」

 中身を飲み干して、コップをテーブルの上に置いた。
 隣に座る降谷さんの顔を見上げると、青い目に射抜かれた。
 彼は真剣に聞いていた。だからわたしも、真剣に答えることにした。

「あなたは聡いから、きっとすぐにわたしが血を買っていることに気がつく……。問い詰められてうまくはぐらかす自信も、"化け物だ"って罵られる覚悟もできなかったの……。だったら、今のままでいいと思った。幸せになれなくても、あなたに嫌われさえしなければいいって。……わたしは、降谷さんが好き。だからこそ、受け入れられなかった」

 降谷さんは安堵したような顔で、わたしの膝の上に頭を載せた。そして、お腹に額を擦り寄せてきた。

「君に、嫌われていたわけじゃなかったんだな……」

 声も安堵に染まっている。
 本当に、嫌われていなかったことにほっとしているようだ。
 爪も牙もまだうまく戻せないから、降谷さんに触れるのは怖い。ためらっていると、降谷さんが体を起こした。
 ぎゅっと抱きしめられて、温かい体温に包まれる。

「……俺は、君が人ではないという事実より、君に嫌われていることの方がおそろしかった。国のためだと、故郷にも家族にも二度と会えない覚悟をして、嫌いな俺のために危険を冒したんだと考えたときは背筋が凍った。そんな君に告白した俺は、なんて浅はかだったんだ、とな……。質問をするのにも、勇気を振り絞った」
「わたしを見て……怖くはならなかった?」
「驚きはした。だが、俺のために"逃げて"と泣く千歳を見て、恐怖心なんて出てこなかった。俺を殺すほどの衝動を、理性で抑えてくれたんだ……千歳を怖いなんて思わない」

 そっか、わたしは、人を好きになっても良いのか。
 降谷さんに拒絶されなかった。一番恐ろしく感じていたことは起こらなかった。それだけで、許された気分になった。

「……触っても、いい?」
「もちろん」

 広い背中に手を伸ばして、縋るようにして抱きつく。
 随分と久しぶりに人と触れ合った気がして、恋しさで涙が溢れ出た。

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