01

※一度も恋人になっていないIf/夢主がヴァンパイア


 真っ赤な水たまりに目が釘づけになる。
 甘い匂い。おいしそう。

「千歳さん? 大丈夫?」

 心配そうな顔をした哀ちゃんに手を引っ張られてはっとした。
 いけない、気を取られてしまっていた。
 幸い、哀ちゃんはわたしが事故を見たショックで固まったのだと思ってくれたようだ。

「えぇ、大丈夫よ」
「それならいいけど。事故、よね」
「そうね、スピードを出し過ぎたバイクの単独事故みたい」

 外れるようなヘルメットのつけ方をしていて、頭部を強打したらしい。加えて、薄着だったのか災いしてアスファルトに打ちつけた場所が深い裂傷にもなっている。
 凄惨な事故現場を目撃した通行人はそそくさと立ち去ったり通報したりと忙しない。
 一応はと119番に通報して、救急車を呼んだ。他にも何件か同じ要請があるそうで、けれどパニックに陥った人の場所の説明が要領を得ておらす感謝された。

「通報は他にもあったみたい。応急処置もしているみたいだし、心配なさそうだからこの場を離れましょう」
「えぇ」

 あぁ……もったいない。
 アスファルトに染みていく血液を一瞥して、哀ちゃんに手を引かれるまま帰路についた。


********************


 わたしは、世間一般で言うヴァンパイアだ。人の血液を糧にして生きる、人外の化け物。
 こちらの世界に来てしまったときは罪を犯すことを覚悟したけれど、知り合ったクライアントの中に"同族"がいて、臨床検査用の血液を買わせてもらえたからどうにか飢え死なずに済んだ。疑われずに血液を輸入する手段として、医療機器や臨床検査用試薬の卸売りをしているらしい。顧客の中には個人で血液のみの買い物をする者もいて、それがわたしと同じ存在だというわけだった。わたしがヴァンパイアだということは、"同族"にしかわからない。誰にも話していないから、知られてもいない。哀ちゃんにも、――降谷さんにも。
 人と同じ食事を摂れるし、そこから栄養も得られる。けれど血液を摂取しなければ、ヴァンパイアとしての本能が飢える。体が丈夫なことも力があることも便利だとは思うけれど、血液ひとつ買うのに苦労する現代では、デメリットの方が多い。そもそも生命の維持に必要な物が入手できないのだ。中には飢えに堪え切れず人を手にかける者もいるようで、血液を入手する手段を得られたのは本当に幸運だった。
 人間に擬態すること自体は、そこまで難しくない。日光は好きではないけれど、浴びても少し怠さがあるぐらいで活動に支障はない。赤い目は血液を欲しているときにしか現れないし、どうしても尖ってしまう爪は、擬態のために丸くすることができる。牙も八重歯と言い張れる程度には小さくできるから、飢えてヴァンパイアとしての本能が隠せなくならない限りは、社会に溶け込むのは容易だった。社会に適応するために、わたしたちの種族は長い時間をかけて変化してきたのだ。
 必要なのは、毎日一口程度の血液。数日分まとめて飲んでおいたっていい。そういう意味では便利な体だ。
 寝る前に飲んで、歯を磨いてから眠る。それが日課だった。
 ――まさか、その日課が崩れる時が来るなんて、予想していなかった。
 いつも血液を売ってくれるクライアントの会社に、捜査が入ったらしい。通常の試薬と一緒に、違法な薬物が取引されていたという。ニュースで騒ぎになっていて、医療機関や研究所へ卸すものも厳重なチェックを受けてようやく出荷できるという状態のようで、一個人が血液を買うなんて大胆な真似はとてもできなくなってしまった。
 先週買った分は、まだあるけれど。捜査がいつまで続くのかわからない。できるだけ節約しないといけない。溜め息をついて、いつもの半分の量の血液を飲み干した。
 そうやって騙し騙し過ごしていたけれど、血液のストックがなくなってからは、喉の渇きに耐える外ない。
 三日ほどは平気だった。十日目までは、水を飲んでどうにかごまかせた。それから後、水を飲んでも喉の渇きを感じるようになった。
 瞳に赤い色が浮かんできたから、カラコンで隠した。段々とカラコンでは隠せない中央まで赤くなり始め、爪も牙も上手く隠せなくなったので翻訳の仕事に集中することしかできなくなった。

「喉渇いた……」

 ぼやくのはそんな言葉ばかりだ。
 いま人に会ったら、襲いかかってしまいそうだ。元々そんなに我慢強くない。我慢をする必要がなかったから。
 プライベート用のスマホに連絡が入っていないか何度も確認して、溜め息をついた。
 数日経つと、ぼやく余裕すらなくなった。気怠くて、ヴァンパイアの身体的特徴を隠す元気もなくて、ソファに横たわって過ごすだけ。
 このまま誰にも会うことなく死ぬのだろうか。陰鬱な気分になってくる。
 降谷さんの好意に応えることもできなかったけれど、わたしの死体を見れば納得してくれるだろうか。
 わたしが普通の女だったら良かったのに。何度も考えては夢のまた夢だと嘲ったことが、脳裏に浮かんだ。
 ピンポーン、とチャイム音が鳴った。誰だろう。気怠い体をどうにか動かして、モニターを見る。そこには降谷さんが映っていた。珍しい、アポも取らずに来るなんて。
 ひとまずボタンを押して、"はい"と返事をした。

『届け物があって来たんです。開けてもらえませんか』
「届け物?」
『えぇ』

 降谷さんが持ち上げて見せたのは紙袋だった。
 中身はわからないけれど、仕事の依頼かもしれない。

「ごめんなさい、今日は体調が良くなくて……玄関を開けておくから、置いていってくれる?」
『大丈夫ですか?』
「えぇ、応対できなくてごめんなさい」

 エントランスのドアを開けて、モニターを切った。
 玄関は、強盗でも来たらちょっと反撃して血をいただこうかと思っていたので昼間は開けっぱなしだ。運が良いのか悪いのか、ただの一度も強盗に入られたことはないけれど。
 ソファに寝転がり、毛布をかぶって爪を隠した。あとは目を開けずに、会話も最小限にしておけばいい。
 そうして待っていると、玄関のドアが開いた。律儀に"お邪魔します"と声をかけて入ってきてくれたから、降谷さんだとわかった。
 カチャ、と鍵をかける音がする。……出ていったわけでもなさそうなのに、なぜ?
 耳を澄ませていると、靴を脱いで廊下を歩いてくる音が聞こえた。待って、なんで上がってきたの。玄関先に置いてくれれば回収したのに。

「穂純さん、大丈夫か? 随分辛そうだが……」
「大丈夫、たぶん寝ていれば治るから」

 だから来ないで。帰って。
 彼が怪我をしているのか、はたまた誰かの血か。甘い匂いがする。ヴァンパイアは異性の血を好む。もしこの香りが降谷さんのものなら、わたしの好みにぴったりだ。
 欲しい。欲しくて欲しくてたまらない。
 喉が渇いてひりつく。

「降谷さん、風邪だったらうつるといけないわ。だから帰って」

 唾を飲んでも解消しない渇き。鼻腔を通る甘い匂い。
 降谷さんが、――わたしの獲物が、自分から近づいてくる。

「時間が取れたんだ。食事の作り置きぐらいはさせてくれ」

 想いに応えられないわたしに、変わらず優しくしてくれる。
 それがうれしいのに、今は聞き分けてほしいと理不尽に願ってしまう。
 喉の渇きに鎮まって欲しくて、首元を掻き毟った。鋭い爪が首に傷をつける。だけどヴァンパイアの丈夫な体は、すぐに傷を塞いでしまう。薄らと漂う自分の血の鉄臭いにおいが、ほんの僅かに理性を取り戻してくれた。
 このまま居られたら、降谷さんを攻撃してしまう。遠慮なしに血を啜ってしまう。
 彼を傷つけるぐらいなら、殺してしまうぐらいなら、いっそ――。

「帰って……」
「穂純さん……?」

 懇願の色に、気づいたのだろう。降谷さんがわたしを呼ぶ声には戸惑いが含まれていた。
 ぱた、と涙が落ちる。嫌われたくない。さみしい。でも、どれだけ"帰ってほしい"と訴えても帰ってくれないのなら、わかってもらうしかない。
 身を起こして、ソファから降りた。自分の喉に爪を立ててどうにか理性を保ちながら、降谷さんと向き合う。
 きっと今、彼の目にはすべてが映っているだろう。真っ赤な目も、口の中に覗く鋭い牙も、首を掻き毟る尖った爪も。
 彼の青い瞳が、驚愕で見開かれた。

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