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 嘘をつくことが当たり前になることも、命を狙われる危険性を孕んだ生活をすることも、一般人である彼女に降りかかっていい現実ではない。
 穂純さんはそれをわかっているのかいないのか、俺の顔を見て柔らかく微笑んだ。

「でも、降谷さんたちに嘘はつかないから安心して」

 ――違う、穂純さんが裏切ることを案じているんじゃない。
 しかしそれを言ったところで、彼女には届かないだろう。

「あぁ。今はそれを信じさせるためのものでもあるんだろう? 預けてくれたものは」
「無条件に他人を信じられる人たちじゃないでしょう?」
「……そうだな」

 自分にとって絶対に必要な物を預けて、そうすることでしか、信用を得られないと思っている。
 帰ることを考えてしまったのか、穂純さんの表情は暗く沈んだ。

「何か、進展はあった?」
「悪い、さっぱり見当がついていないんだ」
「……そう」

 俺たちと会った時点で、彼女は四ヶ月の時をこちらで過ごしていた。
 同じだけの時間が彼女の故郷でも経過しているだけならまだいい。もしも時間の流れが違って、何もかもが彼女の知らない状態になってしまっていたとしたら、彼女はいよいよ耐えられなくなってしまうだろう。その時そばに居てやれるとも限らない。
 できればすべてをわかったうえで、彼女を帰したい。
 いま以上の危険に巻き込まれる前に。

「必ず穂純さんを帰す。今は上司のところで、君がどんな言語も解せるという情報は止めているが……もしもどこかからそれが広まれば、どんな争いに巻き込まれるかわからない。後継者暗殺の件と、今回の件。どちらもその力が発端だ。どれだけ危険か、わかっているだろう」
「……わかってる」

 彼女が無事でいられたのは、運が良かったからに過ぎない。
 後継者暗殺の件では、犯人が不慣れで周囲の状況に気を配る余裕がなかっただけ。今回の件では、赤井の方が先に気がついてフォローを入れてくれただけ。
 膝の上で重ねられた指先の色がなくなっていることからも、彼女自身がそれを理解していることがわかる。
 彼女は赤井をからかいながら、あの男に甘えているのだ。きっと無理に追い詰めるようなことはしてこない、と。
 何の後ろめたさもなく"守ってあげる"と言えたら、どれだけいいだろう。そうするにはもう手遅れだ。彼女の身分証を手の内に握り、半ばそれを人質のように利用して情報を流させている。多少なりとも危険があることをわかっていながら、社会生活に支障が出ることを恐れる彼女の心理を利用して。情報提供料を渡しているのも、その後ろめたさを誤魔化すためだ。

「赤井が接触してくるなら、必ず僕……でなくてもいいから、連絡してくれ」

 あの男が絡めば冷静さを失う自分の欠点は理解している。
 それで彼女が頼ってこられないのでは意味がない。

「うん」

 聞き分けの良い返事だが、これだけでは足りない。

「身の回りに変わったことがあっても、連絡してくれ。些細なことでもいい、心配なことは潰しておきたい」
「うん、何かあったら連絡するね」

 穂純さんの瞳は少しも揺らがない。
 彼女は自身に向けられた心配に、必ず打算が潜んでいると思い込んでしまっているのだ。
 その証拠に、返事はとてもあっさりしたものだった。

「……それと、ひとつ仕事を頼みたい。内容は中身を見ればわかる。どうしてもわからなければ藤波に連絡を入れてくれ」
「了解」

 USBメモリを渡すと、穂純さんはそれを受け取ってハンドバッグに仕舞った。
 こうして何か情報を握らせておけば、彼女も少しは安心するだろう。
 情報が手元にある以上、公安は彼女の身を案じなければならないのだから。

「見積もりは要らない、言い値を支払う。どのみち君にしか頼めない案件だ」

 穂純さんは皿に残ったガトーショコラをひょいと口に運びながら肩を竦めた。

「赤井さんもそうだけれど、わたしがぼったくるかもって考えはないのかしら?」
「そうなればハイコストだが、ローリスク・ハイリターンだ。君以外に仕事を頼もうとすると、必ず複数の人間に協力を求めなければならなくなる。情報を持つ人間が増えれば増えるほど漏洩のリスクが高まる。穂純さんに頼みさえすれば、見るのは君一人で、仕事の品質も申し分ないものが出来上がってくるんだ。頼まない手はない」

 正直な評価を述べると、穂純さんの視線がついと明後日の方向を向いた。どうやら照れているらしい。

「……そう評価してくれているのならうれしいけれど」
「あぁ。……さて、まだ何か飲むか?」
「もう帰るわ。大事な物を預かったし、あまり酔いたくないもの」

 人と飲みたい気分なら付き合う気でいたが、そうでもないらしい。

「そうか。時間差で出る必要があるし、僕はもう少しこれを楽しんでから帰る。ここは酒も料理も美味しいからな。"支払いは安室がする"と言って出て行ってくれ」
「わかったわ、ごちそうさま。……おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」

 ヒールの音が遠ざかって階段を下り始めるのをドア越しに確認して、風見に電話をかけた。

『はい』
「僕だ。今から穂純さんが店を出る。新規の仕事に関する情報を握らせた。赤井の接触にも十分に注意して家に入るまでを見届けろ」
『了解』

 生真面目な声との通話を終わらせ、締め切っていたカーテンを除けて通りを見下ろす。
 店から出た穂純さんは、居場所を知られていたことから赤井がいることを危惧したのか周囲を見回して、それから帰路につく。気づかれない距離で風見が後をついて行くのも確認し、カーテンから手を離した。

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