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『君は黒川さんが本当は何者なのか知っていただろう』
「どういうこと?」
赤井の質問の意図を分かっているのだろうに、穂純さんは意地悪く質問を返す。
俺が助言を用意するのを待っているのだろう。
白河さんについては、正直に話しても問題はない。むしろ警察官と知り合いであると思わせた方が、彼女の警察に対する立ち回り方を気にする必要がなくなるというメリットがある。
"正直に"と書いて見せると、穂純さんはひとつ頷いてまともな返事をし始めた。
「えぇ、知っていたわ。いわゆる彼らの外注先なの」
『あぁ、どうやら君は俺の前で披露してくれた日本語、英語、フランス語、ロシア語、ギリシャ語の他にドイツ語にも通じているようだからな。知り合いに確認したよ』
「それを知ってどうしたいの?」
穂純さんは吐き捨てるように問いをぶつけた。
本当に面倒になってきているのか、そう思わせて諦めさせたいのか。
はっきりとはわからないところが、成長を感じさせる。
『本当に安室という男の正体は知らないのかを知りたい』
――しかし赤井の言葉で、そんな呑気なことを考えていられなくなった。
穂純さんがこちらを窺い見る。
「随分気にするのね? なんなの一体」
返答に間を置く気もないようで、赤井の意図を詳しく聞こうとする質問を投げかけた。
『……思いの外良心的な金額で仕事を請け負ってくれた君に対する、心からの忠告だ。そいつからは離れた方がいい』
「その理由を知りたいところね」
彼女は少し考えて、相変わらず理由を掘り下げようとした。
緊張していることは感じ取れるが、それを明確には感じさせない笑みを浮かべている。
『世の中には知らない方が幸せなこともあると思わないか?』
「知らなければ納得できないことの方が多いと思うわ」
いっそ朗らかにすら聞こえる声に対し、赤井は荒っぽくグラスを置く音で応えた。
報告を聞く限り、赤井は穂純さんのことを敵視してはいない。真剣に彼女の身を案じて忠告をしているのに、重く受け止めてもらえないのだ。同じ立場なら、俺も苛立ちを抱えるだろう。
『本当に信用しているのか』
「確かに笑顔が胡散臭い人だとは思っているけれど。知り合いを助けてくれた後もあれこれ心配してくれるし、いい人よ?」
"安室透"という男に対する彼女の本心が窺えた。上手く本当のことを言って、嘘だとは微塵も思わせない。
俺のことを知っているが故の感想だと思いたい。
バーボンを一口飲んでいると、穂純さんは眉を下げて困ったように微笑んだ。
『信用はしていないが表面的に付き合う程度には問題のない相手だと認識している、と』
「そういうこと」
『……そういう認識ならこれ以上は何も言わんさ。この番号は登録し直しておいてくれ。そして君がいつも使っている連絡先も教えてほしい』
「FBIともやりとりしてるなんて知られたら、日本の警察に睨まれるわ。お断り」
『逃げ道は確保しておくべきだ』
「っ、それは嘘ではないんでしょうけどね」
ほんの一瞬、彼女自身にそんなつもりはない様子だが、言葉が詰まった。
仕方がない。あの赤井からの好意的な申し出だ、断ることを躊躇うのも無理はない。
「透けて見えてるわよ、必要があればまた依頼しようって魂胆が」
『それは、否定せんが』
やはりFBIの目にも、彼女の能力や人脈は魅力的なものに映ったのか。経歴にあやふやな部分はあるが、公安が信用している以上そちらに関しては掌握できると考えているに違いない。
穂純さんは白河さんと赤井のやりとりを盗聴して知った情報を使い鎌をかけたようだが、赤井にはやりにくい相手だと認識させることができたように思う。
会話の区切りを察したのか、穂純さんは幾分かリラックスした様子で背凭れに身を預けた。
「わたし、知らない番号からの電話は出ない主義だから」
『解約する前に覚えておいてくれ』
「生憎と携帯の電話番号なんていくつも覚えられるほど記憶力が良くなくて」
『新しい顧客の可能性は』
「言ったでしょう、特別だって。普段は紹介されたクライアントからの依頼しか受け付けてないの」
『……次に会ったら覚悟しておいてくれ』
「忘れてなければね。それじゃあ」
相変わらずのテンポの良い返答だ。少しだけ赤井をからかうことを楽しんでいないだろうか。
穂純さんは通話を切り、剰えスマホの電源を落としてしまった。
信じられない思いで穂純さんの顔を見ると、視線がぶつかる。彼女は俺を出し抜いたことを喜ぶような笑みを見せた。
向かいのソファに座り直した彼女は、スマホをグラスの横に置きながら俺と目を合わせた。薄まったカルーア・ベリーが彼女の喉を通っていく。やはり緊張はしていたのだろう。
「これで満足してもらえた?」
細い指が、静かにグラスをコースターの上に戻す。
わかっている、これが彼女にとって最良の選択ではないと。――にも関わらず、彼女が赤井との連絡口を断ち、こちらの機嫌を窺っているのだと思うと嬉しくて堪らない。
「ふ、はは……っ、これはまた可愛げのない」
「トドメよね。"とんでもない女に関わっちまった"って思ってくれたんじゃないかしら」
穂純さんはにこにこと毒気のない笑顔で言う。この顔も、赤井は知らない。
彼女の本性も知らず、渋い顔をしているのを想像すると気分がいい。
ずっと置いておかれていたガトーショコラを勧めると、穂純さんは素直に手をつけた。
「最高だよ、よくできました。しかし……予備持ってたのか」
「いつでも切れるようにしておきたい人用に、古い型のやっすいやつ。しかも一番安いプランだけどね。いる?」
「いや、特に使う用事もない」
「でしょうね。一週間ぐらいしたら解約してくる」
どうやら本当に赤井の連絡先を必要だと思っていないらしい。
よほど気に入ったのかマカロンに視線をやる彼女に勧めて――はた、と赤井との会話の中での言葉を思い出した。
「……明日解約するというのも嘘だったのか?」
「え? うん。携帯ショップの近くで一日待ち伏せする赤井さんは見たかったけど、明日は絶対にショップには近づかない」
「それは見たいな。いやそうじゃない、嘘が上手くなったな」
本当に明日すぐ解約するものだと信じ込んでしまっていた。
何気ない雑談ではあったし、"明日"と言っても"明後日"と言っても変わらないようなどうでもいい嘘だったが、欠片の違和感も持たせず嘘をついて見せたのだから進歩だろう。
「本当? よかった。白河さんと会う度ひとつだけ嘘をつくって約束して、ずっとやってたの」
「そうか」
褒められたことを素直に喜ぶ姿に、つきりと胸が痛んだ。
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