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ドレスは無事返せたし、降谷さんたちのおかげで汚れも傷もなかったので買い取りにもならなかった。
それだけ心配していたので、一安心だ。領収証を受け取って、あとでエドに送らなければと思いながら経費用の小さなクリアファイルに挟み込む。
宇都宮さんはドライブに誘ってきたぐらいだし、たぶん今日はわたしとの打ち合わせの時間までは暇だったのだろう。
「お茶でもしていくかい?」
案の定、お茶に誘われた。
わたしも特に予定はないので頷いて、穴場なんだとうきうきした様子で運転する宇都宮さんに道を教えてもらう。
路地裏にひっそりと看板を出している喫茶店で、外は周囲の風景も相まって寂れた感じが強かったけれど、中に入れば清潔で落ち着いたインテリアがランプの柔らかいオレンジ色の光に照らされる、暖かい空間が広がっていた。
白髪混じりの髪を丁寧に撫でつけた初老の男性店主とは知り合いのようで、宇都宮さんは気さくに挨拶をかわしてテーブル席に向かう。
ソファ席では、何やら外国人数人がテーブルの上に紙を広げて話し合っていた。
ちらとそちらを見遣りつつ後を追う。
「ここは長居しても追い出されないから、僕もよく来るんだ」
「いい雰囲気ね」
「そうだろう?」
宇都宮さんはコーヒーとクッキーを、わたしはロイヤルミルクティーとシフォンケーキを頼んで、静かなクラシック音楽に聞き入った。
……その音楽を素直に楽しめない理由が、ちょうど背後にあるソファ席の、先ほど見た外国人の会話から飛び込んできた。アフリカのあたりの言語だ。
宇都宮さんとぽつぽつと言葉をかわしながら、後ろの会話に耳を傾ける。同時通訳や賑やかな場所での通訳のために、話しながら他の会話を聞くことができるようになったし、単純に耳も良くなった。鍛えられたのだと思う。
"支援を打ち切られる"とか、"裏切り"とか、"次男を後継に"とか。あとは暗殺の段取りの話だ。……帰って調べてみる必要がありそうだ。
宇都宮さんにメールをチェックするからと断りを入れてスマホを取り出し、会話に出てきた固有名詞と聞き取れた限りの計画の内容をメールに書き込んで下書きとして保存しておく。実行日時はまだ先だし、慌てる必要はない。これが本当に実行されるものかどうかも怪しい。
店主が注文したものを運んできてくれて、そちらに気が向いた。
茶葉の風味を殺さない、絶妙な加減でミルクを加えられたミルクティー。ふわふわの生地に、生クリームベースの甘いソースを絡めて食べるシフォンケーキ。どちらも絶品で、少しはしゃいでいたら店主がにこにこしながら"これもどうぞ"と一口サイズのフルーツタルトを出してくれた。
「千歳ちゃんは大人っぽいのに、そうやってはしゃいだ時はつい何かしてあげたくなるんだよね。彼もそう思ったのさ」
なるほどこの化粧もそれなりに役に立っているのか。別にギャップを狙っているわけではないけれど、刺さる人には刺さるらしい。
とはいえこれではいけない、この化粧をしているときはもう少し落ち着いていなければ。
年若いからと、舐められるわけにはいかないのだ。
甘いものですっかり幸せな気分になり、一休みを終えて宇都宮さんの会社で次の通訳の打ち合わせをした。
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打ち合わせを終えて帰ってきて、さっそくインターネットで喫茶店で聞いてしまった話について調べてみた。
まずは暗殺現場となる会場での催し物のチェック。これ自体は地域のイベントに近隣の会社の役員や地元議員を呼ぶ、といったありふれたものだ。
そこに出席しそうな近隣の会社の中から、後継ぎがどうとかいう話になっている会社を探す。これもすぐにわかった。ある家電製品の国内シェアナンバーワンという有名企業の社長が高齢で、息子に会社を継がせたいと考えているという話がひとつだけあった。社長には息子が三人いて、上の二人がどちらが継ぐかということで注目の的となっているらしい。
さて、そこにどうアフリカのあたりの人間が関わってくるのか。支援がなんだとか言っていたからと、問題の会社のホームページを見てみる。事業活動の紹介の中に、紛争地域への人道支援を行っているというものがあった。地域も当たり。
その支援が、打ち切られる。これを"裏切り"と呼んでいたのだろうか。そして、"次男を後継にしたい"と言っていたことから、支援を打ち切ろうという考えを持っているのは長男だということが考えられる。
大企業の社長の後継として、イメージというのも大切だろう。もしやSNSでも使っているのではと思い、ネットニュースでわかった後継者二人の名前を検索にかけてみる。これもヒットした。
長男は確かに、人道支援を打ち切りたいという考えを持っていた。それは現地に視察に行って、支援のために送った物資が飢えた民間人ではなく、その地域の軍人たちの生活の糧となっていることに疑問を持ったからだという。今の支援形態ではなく、NPOを設立して、直接民間人に物資を届けたいと思っているらしい。
一方で次男は、父親が事業活動に取り入れた人道支援に強く同調しており、それを引き継ぎたいという意思を公にしている。紛争地域で民間人を守るのも軍人たちの役目で、それが住民の安全に繋がるのなら、今の使われ方でもいいのではないかという考えだ。
やっぱり、支援を打ち切りそうな長男を暗殺し、次男を後継者に据えざるを得ない環境をつくりたいようだ。
どちらの意見にも賛否両論あり、正しいとか正しくないとかもわたしにはわからない。
けれど、この長男の命が危ないのは事実だ。人が死ぬかもしれない。もしかしたら、然るべき機関に連絡すれば、助けられるかもしれない。
わたしがいなければ、たぶん助からないだろう命。助けられるかもしれない命。
「……どうして、聞いちゃったんだろ……」
乾いた笑いが漏れた。
興味本位で調べて、何もわからなかったらそれまでだと、忘れるつもりだった。わたしに調べられるわけがないと、そう思っていたのもある。
何の根拠もない通報に、どうして警察が動くだろう。それなのに、理由の検討がついてしまった。具体的な計画の日時や場所、段取りまでを知ってしまった。
長男を助けていいのか、わからない。これが漫画の流れに反するようなことだったら、わたしが起こした小さなずれが、いつか大きな亀裂になってしまったら。
情報をプリントアウトした紙をまとめて茶封筒に入れ、仕事用の鍵がかかる戸棚にしまった。
実行日まではまだ二週間ある、それまでに考えなければならない。
ざわつく胸に静まれと念じながら、西日の差す部屋でデスクに突っ伏した。
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