06

 千歳が住むマンションの地下駐車場からエントランスに繋がる出入り口は、指紋認証でロックを解除できるようになっている。
 車から降ろされて歩いてきた千歳は、手慣れた動作でパネルに触れようとしたが、はっと思い出したように自分の手を見下ろして首を傾げた。

「……?」
「どうした?」
「え、えーと……ごめんなさい、これに触ればいいんですよね……?」

 体が日常の動作をいくらか覚えている様子だ。
 これなら普通の生活には支障がないだろうと安堵した。

「そうだ。こうやって手を当てればいい」

 右手を取って上から重ねるようにしてパネルに触れさせると、千歳はほっとした様子で開くドアを見た。
 初対面同然であるにも関わらず、手を触られても平気なようだ。
 志保には睨まれたが、千歳が嫌悪感を示していないのだからいいだろうと目を逸らした。
 先に二人を中に入らせ、ドアが閉まったのを確認してからエレベーターに乗り込む。

「千歳さんは605号室に住んでるのよ。だから六階のボタンを押して」
「わかったわ」

 六階に着いて、廊下に人がいないことを確認する。千歳は目当ての部屋を見つけると、今度は難なくパネルに触れてロックを解除した。

「なんだか不思議な気分……登録した覚えもないのに開けられるなんて」
「ふふ、それもそうね」

 志保が玄関を開けて、"先に入れ"と顎で促してきた。後から入ってきた千歳を玄関で待たせておき、部屋の中を確認する。窓は施錠されている、ガラスにヒビもない。寝室も確認して、書斎はドアに取りつけられたロック装置に無理矢理開けた形跡がないか確認をするに留めた。

「千歳さん、一週間分ぐらいの荷物を用意するわよ」

 服は私が見る、下着はここ、化粧品はここと寝室、タオルはここ、と現状家主より家の中に詳しい志保の説明を受けて、千歳はもたもたと準備をし始めた。
 いつも長期の仕事のときに持ち歩いているキャリーバッグを出してやり、リビングに広げておく。
 志保は寝室からせっせと動きやすそうな、かつ千歳の好みに合っていそうな服を選んで運び出してきて、それをソファの上に置いた。

「池田さん、これ詰めてくれる?」
「……あぁ」
「私は千歳さんの他の準備を手伝ってくるわ」

 キャリーバッグの中に入っていた布袋を持って脱衣所に入っていく小さな背を見送った。

「千歳さん、下着はこれに入れて。化粧品は旅行用の小さいのじゃなくて、普通のでいいわ。ヘアブラシとドライヤーとヘアオイルと、ヘアアイロンもいるわよね。基礎化粧品はこれとこれ。そこの棚にポーチはない? ……そう、それよ。それに入れて持ち歩いていたと思うわ。クレンジングも忘れずにね」

 服を詰めながら、てきぱきと指示をして必要な物を集めていく志保の手腕に一人感心する。
 脱衣所と洗面所で用を終えた二人は、持ってきた物をソファの上に置いた。布袋だけは志保の手で服の横に詰められたので、中身は容易に察することができた。

「千歳さん、他の化粧品はどうするの? 結構買い集めていたみたいだから、お気に入りを選んで持って行った方がいいと思うけど」
「え、わたしそんなに贅沢してるの……」
「贅沢ってほどじゃないわ、季節によって使い分けたりしているだけ。車も気に入って長く乗る気満々みたいだし、食事も普通よ。夜にバーでお酒を飲むことと、お洒落にはお金を使っていたみたいだけど」
「そうなの……」
「選ぶのが大変なら私が見るわよ。寝室にあるわ、こっちよ」

 志保は千歳の手を引いて、今度は寝室に連れて行った。
 追加された荷物を詰めて部屋を見回すと、キッチンが目についた。一応見ておこうと冷蔵庫を開ける。牛乳を置いておくのはやめた方がいい。他にも賞味期限が近いものと冷蔵された作り置きの料理を選んで出してみたが、大した量はなかった。これならエコバッグにでも入れれば持って行ける。博士に渡せば消費されるだろう。
 ふとリビングテーブルを見ると、ピンク色のライターが目に入った。傍らに置かれているのはいつかも吸っていたアークロイヤルと携帯灰皿だ。こんな場所にあるということは、頻繁に吸っているのだろうか。いや、一日一本、寝る前に吸っている程度か。小さい携帯灰皿で不自由しないのなら、それぐらいだろう。少し迷ったが、それらをパーカーのポケットに突っ込んだ。
 荷物をすべて揃え、追加で渡された物を詰めながらキッチンに並べた食材をどうするか千歳に確認した。これから会う博士に譲ることもできると伝えると、勿体ないから博士がそれでいいなら、と了承してくれた。志保にエコバッグを探してきてもらう間に、少し休憩させる。

「自宅だという実感はまだ湧かないか?」
「はい……これ以上ないくらい好みの部屋だとは、思うんですけど」
「そうか。……先ほどはすまなかった。君が俺のことを忘れてしまったと、どうしても受け入れ難くてな」
「いえ、あの……わたしは、全然」

 千歳はゆるりと首を横に振った。
 聡い彼女のことだ、病室で俺と安室君の態度がぎこちなかったことぐらいは察せているだろう。その証拠に、謝罪に疑問を持たない。

「千歳にも受け入れられないことはあるはずだ」
「……はい。実家のことも、会社のことも……まだ」

 何の予兆もなく気絶して、目が覚めたら職場どころか肉親との繋がりもなくなっていた。そんな目に遭った彼女の混乱は計り知れない。
 状況を飲み込み切れずに志保に引っ張り回されているだけであることは容易に窺えた。

「それは仕方のないことだ、無理に納得しなくていい。ただ……俺たちのことを信じてくれないか」
「え……?」
「必ず君を守る」

 ――千歳に手に取ってもらえなかった、恋心を懸けて。
 病院で遠回しな告白をした。返事は"考えさせてほしい"だった。数日後に正式に断られた。
 それなら降谷君と一緒にいることにしたのかと思えば、そうでもないと言う。
 千歳は二つの選択肢を与えられて、そのどちらも選ばなかった。
 選べなかった、といった方が正しい。千歳は他人に対して自分から関心を持つことが少ない。ただ、好意を向けられて、それが自分に危害を加えるようなものでないのなら、同じだけ返そうとする。そんな性格の千歳が、降谷君のために何かをしようと思い立った。それだけでも珍しいことだったが、同時に二人の男から慕情を向けられ、どちらにどれだけ返せばいいのかもわからなくなり、処理しきれなくなったのだろう。
 逃げを打った千歳を、降谷君も俺も無理には追わなかった。公安に友人がいるのだから、何かあってもそちらに連絡をして上手いことやるだろう。
 今回の事件は、そう買い被っていた矢先に起きた。千歳が風見警部補に連絡を入れたのは、手遅れになってからだった。
 防犯カメラを調べた藤波警部補、現場で状況を確認した風見警部補の報告により、敵はアメリカでも度々事件を起こしている国際的な犯罪組織だと判明した。建前上日本に旅行に来ているということになっているボスとジョディ、キャメルに、合同捜査を取りつけたので日本の警察と合流するようにと本部から通達があった。金の動きに鋭いCIAのエージェントからの情報提供で、日本の動きに目を光らせていたらしい。
 事件の解決はFBIとしても重要な事項だ。それには千歳の協力も要る。だが千歳を守る理由は、それだけではない。
 千歳はきょとんとしていたが、徐に俺の手を取って微笑んだ。

「信じます。不思議と、触られるのが嫌じゃないから……きっと、頼っても大丈夫だって"覚えている"んだと思います」
「……そうだといいんだが」

 まっすぐに向けられる信頼が突き刺さる。肝心な時に助けを求められる立ち位置にいなかったというのに、それを知らない千歳は言葉と薄らと残った体の記憶だけを頼りに信頼できる相手を探しているのだ。
 細い指先を握って、唇を触れさせた記憶のある指の背をそっと撫でた。

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