02

 執事から住所を聞いた風見は、すかさずそれを近くにいた部下に伝えたようだった。

『わかった、すぐに向かう。安全な場所にいるか?』
「わたしは平気、でも、パスワードを託してくれた人が……!」
『何……っ、急ぐぞッ! 穂純、電話は繋いだままにしろ、音量は最小限にしてそのまま持っているんだ。これ以降は何も喋るな!』
「わかった……っ」

 人差し指を唇に当て、執事にも口を閉ざしてもらう。スマホを握り締めたまま壁に耳を当てて、応接室の物音に耳を傾けた。
 金属が何かにぶつかる音がする。ワーグナーさんが金庫を移動させているのかもしれない。そんなことをしていないで、早く隠れて。願っても届かない。
 ワーグナーさんが何かをしているうちに、ドアを蹴破る音がした。数人の足音がどたどたと入り込んでくる。それは足元からも聞こえてきた。

≪ワーグナー! 女をどこへやった≫
≪知らん。パスワードを知るなりすぐに逃げていったよ≫

 予想に違わず、ワーグナーさんは壁一枚を挟んだ向こうでわたしがパスワードを知っていることを示した。

≪パスワードはテメェも知ってるだろう≫
≪教えるとでも? お前たちに教えるぐらいなら死んだ方がマシだ≫

 歯を食いしばって、震える奥歯を抑え込む。

(――やめて)

 ワーグナーさんにパスワードを言う気がないとわかれば、彼らは拷問して"吐かせやすい"女に狙いを絞るだろう。そうなってしまえば、好き勝手に動かれないためにもワーグナーさんの存在は邪魔になる。
 そういう判断を下したら、ワーグナーさんの道はひとつしかない。

≪はは……っ! おい、金庫を探せ! 俺はコイツにパスワードを吐かせる≫

 足元の部屋のドアが開けられた。ワーグナーさんのことが気になりながらも、足元からも意識が逸らせない。
 息を詰めて足元を見つめていると、やがて足音は遠ざかっていった。……やり過ごせた。
 安堵の息をつく暇もなく、今度は壁の向こうから銃声とワーグナーさんの悲鳴が聞こえてきた。

≪指を一本ずつ吹っ飛ばしていくのはなかなか楽しそうだなァ。なァに、口さえ残しておけば喋れるだろ? どうだ、話す気になったか?≫

 問いかけに、ワーグナーさんが答える声はない。痛みで口をきけないか、あるいは、首を横に振ったか――。
 また、銃声と悲鳴が聞こえてきた。二本目、だろうか。
 恐怖で上がる息をどうにか抑える。早く、早く来て。
 祈る間にも、銃声と悲鳴が鳴り響く。銃声を十数えたところで、侵入者の男の楽しそうな声が聞こえてきた。

≪はは、足の指を全部ブチ抜いても吐かねぇか。じゃあ次は手だな≫

 ひ、と息を呑む音がした。それでも恐怖から小さな悲鳴を上げたワーグナーさんが屈服する様子はない。
 痺れを切らした男の銃が、またワーグナーさんの指を撃ち抜いた。隣にいる執事もがたがたと震えている。わたしもスマホを持つ手が震えて、口元を押さえる手も碌に働いていなかった。
 二本目、三本目――。銃声が響くたび、いやでも数えてしまう。
 また十を数えると、男はとうとう苛立ちを見せ始めた。仲間に"ショットガンを寄越せ"と命じて、受け取ったそれをどうしたのかはわからない。銃声が響いて、先ほど以上の悲鳴が部屋に響き渡って――メリメリ、という何かが引き剥がされるような音と、ぶちぶちという何かが切れるような音が聞こえてきた。
 部屋で何が起こっているのかわからない。"金庫を見つけた"という声が聞こえて、ぐっと息を詰める。金庫が見つかってしまった以上、よりいっそうこの場でパスワードを知る意志が固まってしまったことだろう。
 再度ショットガンの銃声が聞こえて、――今度は悲鳴が上がらなかった。

≪あ……? 何だよコイツ、悲鳴も上げねぇと思ったら死んじまいやがった≫
≪女の方を追いましょうよ。ブチ犯してから同じ目に遭わせた方が手っ取り早く聞き出せるんじゃないですか?≫
≪それもそうか。あの女、情報屋から買った資料を見る限りなかなかお綺麗な顔してるぜ。おい、撤収だ!≫
≪リーダー! 下にパトカーが……!≫
≪テーブルの上にスマホがある、チッ、このクソジジイ、狙撃されてからサツに連絡入れやがったか……!≫

 がっ、と何かを蹴るような音の後、足音が一斉に遠退いていった。
 耳を澄ませても、何の物音も聞こえない。人がまだ潜んでいる可能性は否定できない。これ以上犠牲は出したくない……何も知らないであろう執事は、特に。
 スマホを耳に当て直すと、風見がわたしを呼ぶ声が聞こえてきた。

『穂純、穂純……!』
「か、ざみ」
『犯人グループが一斉にマンションから出てきた。今からそちらへ向かう』
「銃を……持ってる、拳銃も、ショットガンも……」
『わかった、大丈夫だ、こちらも相応の準備はしてきている。穂純にパスワードを託した人物は?』
「し……しん、じゃった」

 答える声は震えてしまった。壁一枚挟んだ向こうで、息絶えてしまった人。頭では理解していて、でも実感が湧かなくて。

『なっ』
「パスワードを言わないで、何度も撃たれて、そのまま……」
『今そちらの部屋へ向かっている、敵は全員撤収したようだ』

 徐に、執事が背にしていた壁をそっと押して開けた。応接室に対しては垂直な壁だ。目で追っていると、執事は押し開けた壁の向こうにあった小部屋の中の、応接室に面した壁に取りつけられた取っ手を手探りで見つけ、それも開ける。そこはインテリアを置いてあるスペースの横に置いてあった棚があった場所で、両開きの扉になっていた部分は通り抜けられるらしい。あちら側から開けても、ただの何も入れていないスペースにしか見えなかったのだろうけれど。

≪旦那様……≫

 絶望に塗れた声が聞こえてきて、そっと後をついていく。
 先に部屋に出た執事の後を追って棚の下半分のスペースを潜り抜ける。床には赤い液体が広がっていて、ごく近くにワーグナーさんの遺体はあった。
 両手両足の指を落とされ、挙句の果てに二の腕の肉を削ぎ落された右腕が、骨が根元から剥き出しになって引き抜かれている。最後に聞こえたショットガンの銃声は彼の腕の肉を削ぎ落したときのもので、何かを引き剥がすような音は、切れなかった彼の骨が僅かに残った肩側の肉から引き離された音。ぶちぶちという音は、残った肉や筋が切れたときのもの。
 ワーグナーさんの目は虚ろで、口元は悲鳴を上げるかたちを取ったまま、何の音も発することなくぽっかりと開いている。
 つい先ほどまで話をしていた人が、わたしを庇ってくれた人が、こんなにもあっさりと。

「穂純!! な……っ」

 部屋に駆け込んできた風見が、部屋の惨状を見て言葉を失った。

「風見……」
「穂純お前っ、どうして出てきて……」
「どう、しよ……わたしのせい、おかしいって思った時点で、相談してれば……」
「おい、穂純」

 風見に肩を揺さぶられても、ワーグナーさんから視線が外せない。

「話を聞いてから決めればいいって、呑気にかまえてたから……」
≪旦那様、旦那様……!≫

 執事の悲痛な呼びかけが心を抉る。
 わたしの判断が早ければ、もっと早く公安に相談をしていれば、同席してもらえていれば――彼はあるいは、死ななかったかもしれないのに。
 ずきずきと頭が痛んで、こめかみを押さえて蹲る。
 わたしを庇って、ワーグナーさんは死んでしまった。早々に彼に見切りをつけた侵入者たちは、わたしを犯してから同じ目に遭わせると言っていた。捕まれば最後、凌辱されて尚、彼のように苦しまなければならない――。

「……わたしが、ここに来なければ」
「おい、俺の言葉を聞け、穂純ッ!」

 いっそ……何も知らないままでいれば。否、忘れてしまえば。
 誰にもパスワードはわからなくなって、あの金庫は永遠に開けられなくなる。
 そうなれば、いつか必ず機能を更新できなくなった"洗濯機"に捜査の手が伸びる。

「ふふ……それで、いいじゃない」

 頭痛が意識さえ苛むほどのものになって、真っ赤な視界がぐらぐらと揺れる。
 繰り返しわたしを呼ぶ風見の声が遠ざかって、ふつりと視界が真っ黒に染まった。


(降谷さん、赤井さん、……ごめんね)

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