06

 肩に載せられたままの頭に頬を擦り寄せると、零さんの体がぴくりと反応した。

「零さんのことはね、怖くないの。信じられるから……」
「あぁ」
「でもちょっと、"バーボン"は怖かった……」
「……それはそうだろうな。"バーボン"が"キティ"に甘いのは周知の事実だ、今回のことで過保護に拍車がかかったとでも思わせるようにしておくさ」
「うん……」

 零さんは、わたしの言葉に"それが正常だ"と言った。まるで"自分は違う"と言いたげだった。

「……俺には、"国のためだ"という大義名分がある。それでいくらか救われているのかもしれないな。"キティ"もそのために作られた存在だ。心を軽くするためにそうやって理由を作ってもいい。言われたから"そう"演じているだけだと割り切ってもいい。"穂純千歳"が悪いだなんて、絶対に思わないでくれ」

 飲み込み切れないものは、多分あるのだろう。それを感じさせないだけで、彼の内側には蟠っているものがある。きっと、白河さんにも。
 零さんは割り切るすべを知っていた。感情を隠す訓練も積んだはずだ。
 そうじゃないわたしが割り切れなくても、何ら不思議じゃない。そう思うと、少しだけ心は軽くなった。

「……"キティ"も"ちせ"も別人だって思った方が、ずっと楽かも」
「自分を責めなければ何でもいいさ」
「うん……」

 零さんは体を起こして、氷嚢を載せた足と水に浸した手を確認した。

「赤みは引いたな。あとで保湿クリームを塗ろう」
「穂純ちゃん、ご飯は食べられそう? 雑炊作ったから食べなよ」
「! ありがとうございます」

 白河さんが用意してくれたご飯を食べて歯を磨いて、手と足に薬用の保湿クリームを塗ってもらった。
 大きな手でさすられるのが気持ちいい。

「じゃあ降谷君、後は任せたからね」
「えぇ。ありがとうございました」

 白河さんが帰っていくと、部屋は静かになった。
 零さんは真剣な表情で手の隅々までクリームを塗りこんでいる。
 疲れがあったのか眠気が襲ってきて、欠伸が漏れた。

「寝ようか。鍵を閉めてくるから、そこの部屋に先にどうぞ」
「はーい。……そういえば、ここって?」
「公安が持ってるセーフハウスのひとつだよ。デパートが閉まって出庫できない可能性があったから開けてもらっておいたんだ」
「そうだったの……」

 寝室らしい部屋に入って、その中に置いてあったベッドに沈み込むと、眠気が一層強まった。
 すぐに来てくれた零さんが隣に寝転がる。
 あやすようにお腹をぽんぽんと叩かれて、瞼が重くなった。

「明日には気分もすっきりしているさ。……おやすみ」

 "おやすみなさい"を返せたのかわからない。
 お腹を叩く手と静かな声が心地良くて、気がつけば深い眠りに落ちていた。


********************


 起きたらお昼近くだった。
 明るい部屋の中で目が覚めて、スマホは自宅に置いてきているため部屋に備えつけてあった電波時計を確認して愕然とした。
 寝たのが深夜を過ぎた時間だったとはいえ、寝過ぎなのでは。
 脇に置かれていた服に着替えて慌てて部屋から出ると、零さんが得意のハムサンドを作って待っていて、顔を洗っている間にスープを温めてくれた。
 もはや昼食となってしまったハムサンドを食べて、片付けすら手伝わせてもらえずにソファで一息つく。しばらく待つと、片づけを終えた零さんが対面のソファに座った。

「ネイルをしよう」
「……うん?」

 戸惑うわたしを無視して、零さんはポリッシュカラーを並べた。色味の違うピンクが三つほど。ベースコートとトップコートもある。

「千歳はどの色が好きなんだ? 仕事もあるからこのピンクかな」
「え? うん、それぐらいがちょうどいいと思う……そうじゃなくて、どうしたの突然」
「ん? 昨日、剥がしてしまったから塗り直そうかと。車も取ってきたからいつでも帰れるしな」

 零さんは"こういう細かい作業は好きなんだ"と言いながら小花柄のネイルシールで飾りつけまで施して仕上げてくれた。
 乾かす間に物を触らないように言われて、仕方なく掃除をするのを眺める。
 零さんが部屋を片付けているのを待つうちにネイルも乾いて、つやつやとした光沢が爪に戻った。

「……自分でやったのより可愛い」
「気に入ってもらえたなら何よりだ」
「落とすのもったいない……一週間ぐらいで剥げてきちゃうのに……」
「お望みなら何度でも塗り直すさ」

 零さんはすっかり乾いた指先を取って、まじまじと見つめてくる。
 それからふわりと笑って、青い目を細めた。

「……うん、綺麗だ」

 昨夜のわたしの言動を気にしてくれていたのだろうか。

「あの……昨夜のことは、気にしないでね? 気が動転していたというか……」

 幻覚症状もいいところだ。振り返ってどこかおかしかったと思う程度には、回復したと思うのだけれど。
 わたしの言葉を聞いた零さんはむっとした顔をした。

「気にするさ。カウンセリングにも行かせる」
「えぇ、やだ……」
「"やだ"じゃない。俺も付き添うからきちんと受けるんだ」

 零さんはそれだけは譲らない様子だった。
 家まで送ってもらって、その場で予定を確認して一週間後にカウンセリングの予約を入れられた。
 予約をしても待たされるから、あまり好きじゃないのに。
 気乗りせずにいると、零さんは溜め息をついた。

「二、三日もすればわかる。……カウンセリングが終わったら、デートするか?」
「!」
「近くのホテルでビュッフェをやっていたな。ベルギー産の本格的なチョコレートスイーツが食べられるとか。カウンセリングに行くなら、もれなく俺もついてくる」

 滅多にできないことを持ち出してくるなんて。

「ずるい……」

 零さんは眉を寄せて切なげに笑った。

「千歳を苦しめたくないんだ。狡くもなるさ」

 ポアロに出勤しなければならないからと、零さんは一週間後に予定を入れないように念を押して帰っていった。
 翻訳の仕事をしながら過ごして、いつもどおりに夕飯を作って食べ、お風呂に入った。幻覚が見えることなんてなく、普通に生活ができるのにどうしてあんなにも頑ななんだろう、と考える。
 真っ暗な部屋でベッドに寝転がって、充電器に繋げたスマホを投げ出した。
 お昼まで寝過ぎたせいなのか、眠気はなかなかやってこない。体だけでも休んでおこうと寝てみただけだったから、目を瞑っても頭は冴えていた。
 そうやってしばらくごろごろして、気がつくと眠っていた。どこか見覚えのある廊下に立っていて、夢だとはっきりわかる。いやに鮮明で、不思議に思って辺りを見回した次の瞬間、床が真っ赤に染まっていた。

「――っ」

 目が覚めて、強張った体がほぐれるのがわかった。
 夢見が悪かったような気はしているのに、夢の内容は覚えていない。嫌な感覚だけが残って、朝まで寝つけなかった。
 次の晩もその次の晩も、なかなか寝つけず、眠れたと思ったら記憶に残らない嫌な夢を見るばかりで、よく眠れない日が続いた。
 ここまでの寝不足の感覚は、ストーカーに遭ったとき以来だ。
 仕事が手につかなくて、納期もまだ先だから後回しにしようと中断して、書斎から出た。インターホンが鳴って、来客を確認すると零さんがエントランスに立っていた。
 玄関で出迎えると、わたしの顔を一目見た零さんがぐっと眉を寄せて渋面をつくった。

「……だから言っただろう」

 こうなることを見越していたのだと、だから目の前に人参を吊り下げてでもわたしに言うことを聞かせようとしたのだと言いたげだった。

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