夏
毎日続く尋常じゃない暑さ。体に悪いからと弱くした冷房は、力なく唸っている。
肘や膝の裏にじんわり溜まる汗、喉が渇いて仕方がない。
「あつい」
ひんやりするタオルケットをソファに敷いて、寝そべりながらぼやく。
向かいのソファに座って本を読んでいた零さんは、苦笑いをしながら本を閉じた。
「大丈夫か? 冷房をもう少し強くするか……」
「んん……クーラー強くすると眠くなる……」
「あぁ、風が苦手なのか」
夏バテしないように、冷たい物だけにならないよう食事は気をつけているから、気だるくはない。でも暑い。
コップに注いでもらった麦茶を飲んで、溶けるようにタオルケットに突っ伏した。
「朝は何を食べたんだ?」
「トースト。食パンにベーコンと卵のせてオーブンで焼いて食べた」
「夜はどうするんだ?」
「豚丼つくろうかなって」
お肉を食べておけばいいだろうという雑な献立だ。
けれど零さんはそれには何も言わずに、キッチンに視線を向けた。
「それなら夏バテの心配はなさそうだな。素麺茹でるか」
「!」
身を起こすと、零さんはちらりとこちらを見た。
「天ぷらもいいな。何を揚げるか……」
「大葉! 大葉の天ぷら食べたい」
「わかった」
食欲が出てきたことがわかっているのか、リクエストはすんなりと受理された。
「そうめんはね、クライアントから貰ったお中元がたくさんあるの。食べきれないし持って帰る? 直接持ってきてくれた人のは分けてあるから」
「助かる。買い物はどうする? 大葉とかないだろ」
「行く。たしかめんつゆもない」
「じゃあ待ってるから準備してこい。日焼け止めを忘れないようにな」
「はーい」
着替えてからメイクを直して、日焼け止めを塗った。腕はもちろん、脚も首元も危ないのでしっかり塗る。日傘も持てば、十分だろう。
どうせ買う物は多くない。軽い運動がてら近所のスーパーまで歩いていって、大葉とついでにエビやさつまいもなんかの天ぷらの材料と、めんつゆを買ってきた。
帰ってくると、零さんは手を洗ってからコンロの上の換気扇をつけ、大きめの鍋にたっぷりのお湯を沸かし始めた。隣に油を入れた鍋も置かれる。こちらはまだ火をつけないようだ。
「何か手伝う?」
「天ぷらの衣、作れるか? 冷やしておいたから」
冷蔵庫から取り出された卵と小麦粉、水を見て、出かける準備をしている間に仕込んだのだと確信した。
「準備がいい」
「まぁな。先に卵と水を混ぜて、泡はできるだけ掬い取ってくれ。その後小麦粉を入れて、箸でつついてざっくり混ぜる」
「ざっくり」
「ざっくり。横で見て、いいところで止めるよ」
零さんが洗ったさつまいもをさくさく切っていく横で、言われたとおりに衣をつくった。
"混ぜるのはそれぐらいでいい"と止められて、作業をやめる。
次は何をしたらいいのかと顔を見上げると、くすりと笑われた。
「なに……!?」
「いや、かわいいなと思って。さつまいも、衣に浸しておいてくれるか?」
「……っ、はぁい」
何を見て"かわいい"と思ってくれたのかはわからない。
うまく反応することもできず指示に返事をするだけに留めて、輪切りにされたさつまいもに手を伸ばした。
さつまいもを揚げる準備をしている間に、零さんはそうめんを鍋に放り込んでいた。六束も入れているから、かなり食べる気らしい。お湯で満たされた鍋に一緒に放り込まれた空気が、小さな泡となってせり上がる。零さんは菜箸でそうめんをかき混ぜて、噴きこぼれないように火を調節した。
シンクにざるを、調理台に揚げた物を載せるキッチンペーパーを敷いたトレーを用意しているうちに、そうめんはすぐに茹で上がった。
「千歳、火傷するといけないから少し離れてくれ」
「うん」
調理台から離れると、零さんはミトンを使って鍋をひょいと持ち上げてシンクの前に移動し、ざるに鍋の中身を流し込んだ。ざっぱぁ、と大量のお湯と一緒にそうめんがざるの中に落ちる。湯気がもくもくと上がって、零さんはすかさず水を出した。
「さすがに暑いな……。千歳、油の方に火をつけてくれ」
「了解。……代わる?」
「はは、気持ちだけもらっておくよ」
零さんは粗熱を取ってから、流水で揉み洗いするように言って交代してくれた。冷たい水に手を浸しながら、すっかり冷えたそうめんを揉んでぬめりを取る。
その間に零さんは天ぷらを揚げる作業に取り掛かっていた。そうめんの粗熱を取る間に、油もちょうどいい温度になったようだ。
甘やかされてるなぁ、と思う。暑さでぐだぐだになるわたしに、火に近づく作業をさせないように気遣ってくれている。
鍋の半分がさつまいもで埋まって、空いたスペースに薄らと衣がつけられた大葉も浮かべられる。油がはちはちと音を立てているのが聞こえてきた。
「大葉は片側だけ衣をつけると上手く揚がる」
「なるほど」
「衣も上手にできているから、さくさくしたのができるぞ」
「本当? 楽しみ」
「素麺はどうする? 一口にまとめるか」
「え、ざるにあげて終わりじゃないの?」
「乾くと食べにくいぞ。水に浸けたままだと美味しい状態じゃなくなるしな。スプーンとフォークで、パスタと同じように巻いて皿に落とすんだ」
「やってみる」
そうめんを盛りつける大きな皿を出して、言われたとおりにそうめんを巻く。慣れた人は手でやるんだろうなぁ。
そうしている間にも、零さんは手際よく天ぷらを揚げていった。首筋を伝う汗につい目がいってしまう。
「どうした?」
「な……んでもない」
邪念が入ったせいなのか、そうめんは大きさもまちまちになってしまっていた。
零さんはそれを見て、ふふ、と笑う。けれど馬鹿にされているような感じはしない。
「下手だな」
「不器用でごめんなさいね!?」
「化粧は上手いのにな。代わるか? 大葉は終わったから、あとはそんなに難しくない」
「代わる」
上手くまとめられないことが嫌なのがわかったのか、零さんは交代を申し出てくれた。
ちゃっかりエビも衣に浸してくれてある。
残りのさつまいもとエビを油に入れて、はちはちと黄金色の気泡が出てくるのを見守る。鍋に意識を向けつつ零さんの手元を見遣ると、わたしより大きいのに器用な手が、指先でそうめんをくるくると巻いて一口大の玉をつくっていた。
料理は人並みにできるつもりだけれど、どうしたって零さんには敵わない。
「……恋人が自分より料理下手なのってどう思う?」
「ん? 千歳は人並みに作れてるじゃないか。俺は趣味で上達しただけだから、気にしない」
「そういうもの?」
「そういうものだよ。それに、不器用なところもかわいいと思う」
「んんっ……またそういうこと言う……」
衣がいい具合に揚がったところで、キッチンペーパーの上に追加で並べた。下ごしらえが済んだエビを選んで正解だった。きれいにまっすぐ伸びたエビの天ぷらが出来上がった。油が切れたところで、お皿に盛りつける。
500mlの計量カップに氷をごろごろ入れて、めんつゆを薄める水を用意して。麦茶も忘れちゃいけない。グラスに氷を放り込んで、リビングから持ってきた麦茶を注いだ。
テーブルを拭いてあれこれ並べつつ、片付けられるものは片付けた。
キッチンは少し暑かったけれど、冷房の効いたダイニングは幾分か涼しい。
「ご苦労様。動いたらお腹も空いたんじゃないか?」
「ん、食欲ある」
「それは何より。……食べようか」
零さんと向かい合って、手を合わせて"いただきます"と言ってから、箸に手を伸ばした。
小さめにまとめてもらったそうめんを取り、つゆをつけて口に運ぶ。コシがあって、小麦粉の風味もする。冷えためんつゆのおかげで冷たい。
「おいしい」
「上手く茹でられたみたいだな。良かった」
大葉は風味を残しつつぱりぱりと音を立てて砕ける。さつまいもはたっぷりと甘みを含んでいて、ほくほくした食感も舌触りがいい。エビも噛むと身が弾けて、ぷりっとした食感が気持ちいいし、程よい甘みとめんつゆを同じ量の水で割った天つゆのしょっぱさが絡んでおいしい。
零さんはわたしの様子を見ながら食べ進めている。わたしが食べられるだけ食べたら残りを平らげるつもりなのだろう。柔らかく目を細められて、思わず首を傾げた。
「……なに?」
「ん? いい食べっぷりだと思って。食欲がなさそうだったから心配していたんだが、良かった」
うれしそうに言われて、からかっているという線はなくなった。
純粋に、わたしがきちんと食べて栄養を摂っていることに安堵しているらしい。
「千歳。夜の豚丼、俺が作るから泊めてくれないか?」
「作らなくても泊めるけど」
「じゃあ、俺の我儘を聞いてくれないか」
「うん?」
零さんは箸を持たない左手で口元を覆って、目を逸らした。
「……抱きたい。片付けたらでいいから」
「…………、っ!?」
数秒遅れたわたしの反応に対して、零さんはむっとしたような表情を浮かべた。
「仕方ないだろ……あんな物欲しそうな目で見られたら」
「み、見てない! いつ!? 今そうめんと天ぷら食べてただけなのに!」
「今じゃない。揚げ物をしているときだ」
言われて、ついつい零さんの肌を伝い落ちる汗を目で追ってしまったことを思い出す。
「え、や……でも、物欲しそうな目なんてしてない」
「嫌か?」
「いやでは、ないけど……」
冷房が多少効いているとはいえ、この暑さの中でだなんて。
メイクもぐちゃぐちゃになりそうで不安だ。
「せめて……顔だけ洗わせて」
顔を見られなくて、ぼそぼそと答えた。
はー、と溜め息を漏らされ、何か気に障ったのかと零さんの顔をちらりと見遣る。
予想に反して、彼はうれしそうに微笑んでいた。
「千歳は、本当に俺に甘いな」
明るいうちから行為に及ぼうなんて、どうかしていると思うけれど。
きっと暑さでやられたのだと思う。そう思いたい。
甘いのは零さんの方だ。暑い中わたしの食べたい物を用意するために買い物にまで付き合ってくれて、熱い湯気に包まれるような作業はやってくれた。上手にできない作業をあまりやりたがっていないことも汲んでくれた。
「……零さんに言われたくない」
ぽつりと反論しても、零さんはうれしそうに笑うだけ。
男らしい太い首筋に汗が伝う光景を思い出して体が疼いたのも、きっと彼にはばれているのだろう。
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