24
「穂純さん、着きましたよ」
エンジン音を聞きながら目を伏せて、眠りに落ちるか落ちないかのところを彷徨って数十分。
安室さんの声に、はっとして意識を引き寄せた。
顔を上げて窓の外を見れば、住んでいるマンションの地下駐車場の中であることがわかった。
「……ありがとう」
「いえ。部屋の前まで送らせてください」
「そこまでしてもらわなくてもいいわ。少し休んだからだいぶ楽になったし」
「僕が勝手に心配しているだけですから。右手のことを気にしているなら、部屋まで無事に帰るところを確認させてください」
言いたいことはわからなくもない。
怪我をしてまで守ったのに、家まであと一歩のところで何かあったら、と思うのは自然なことだろう。
結局わたしが折れて、部屋の前まで送ってもらった。
持ってくれていた荷物を受け取って、カードキーで玄関の扉の鍵を開ける。
「手のことは、本当に気にしなくていいですから。僕の失態です。蒸し返されると傷つきます」
「……そこまで言うなら気にしないことにするわ」
「えぇ、お願いします。では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ドアが閉まると、自動で鍵がかかる。
ひとつ息を吐くと、強張っていた体が安らいだのがわかった。電気をつけると、すっかり見慣れた部屋が目の前に広がる。
パンプスを脱いでシューズボックスにしまい、バッグに入れていた日常用のものは玄関に揃えて置く。
あとの荷物は明日でもいいか、とソファに置いてカーテンを閉め、ドレスを脱いだ。返却用の袋に入れて、これもソファの上に置いておく。
崩れた髪をほどいて、固定するために留められていたヘアピンも外した。
化粧を落としてシャワーだけ浴びて、寝よう。ネイルは別に落とさなくてもいいや。
チューブトップとペチコートというとても人には見せられない格好で、バスルームに向かった。
クレンジングジェルでさらりと化粧を落とし、シャワーを浴びて汗を流す。
面倒ではあったけれどスキンケアはちゃんとして、風邪は引きたくないので髪を乾かして。
寝室に行ってベッドに乗り上げ、布団に潜り込む。結局、自分の寝床が一番安心できるのだ。
スマホを充電しなくちゃいけないとか、もしかしたら連絡が入っているかもしれないとか、寝る前に気にしなければならないことはたくさん浮かんだけれど、睡魔には勝てなかった。
********************
「……お昼かぁ」
目が覚めたら、お日様は天辺を通り過ぎる時間だった。念のためにセットしていたアラームを止め、のそのそと起き上がる。
買い置きのシリアルを食べて、歯磨きと洗顔を済ませる。ようやく頭がすっきりした。
ドレスを返しに行って、午後三時から次の商談の打ち合わせ。
タクシーを捕まえなければならない。やっぱり車は買うべきだ。どうせならこだわったものがいい。別に外車とかじゃなくていいけど、かっこいい感じのがいいな。
どうでもいいことを考えながら、出かける準備をした。
肩肘張る打ち合わせでもないので私服にして、ひとまず米花駅に向かおうかと思いながらマンションを出た。
「やぁ、千歳ちゃん」
三時から会う予定のはずの宇都宮さんが、マンションの前に車を停めて外で待ち構えていた。
どうかしたのかと驚いて駆け寄ると、どうせ移動手段はタクシーだろうと見当をつけて、迎えに来てくれたらしい。
その前に寄るところがあることをドレスのレンタルショップの袋を見て察され、そちらにも寄るよと言われる。
「……お言葉に甘えさせてもらうわね」
「ぜひそうしてくれ。さ、乗って乗って」
促されるままに右側にある助手席に座った。
シートベルトを締めると、車はゆったりと走り出す。
「車、替えたのね」
白一色だったと記憶しているのに、天井が黒かった。
メーカーは一緒で、お気に入りのBMWらしいけれど。
「あぁ、M6グランクーペに一目惚れしてね。ナディアには"また高いのを"って呆れられてしまったよ」
可愛らしい顔を怒ったものに変えて、宇都宮さんに冷たく当たる奥さんの姿が容易く想像できる。それでもきっと、一時間にも満たない時間だろう。理解できないから少しは怒るけれど、結局は宇都宮さんが己の力で勝ち得たお金で買っているのだし、家族をきちんと養っているのだからと、あまり気にしていないのだ。それよりも、しばらく宇都宮さんが新しい車に夢中になってしまうことに、値段という尤もらしい理由をつけて怒って見せているというのが正しいと思う。
知り合いは夫婦仲のいい人たちばかりだなぁ、となんとなく思う。
気になったのでスマホでメーカーのホームページにアクセスしてそのモデルを見て、値段を見て、"わぁ"と声が出た。
「そりゃそうでしょうね。BMWで白なのは相変わらず、興味ないと違いもあんまりわからないもの。ちなみに前のはなんだったの?」
「M3セダンだね」
ついでにそのモデルも見てみる。
「お金持ちこわ……」
素直な感想が漏れた。
これで車貧乏になんてなっていないのだから、彼が代表取締役を務める会社はさぞ業績がいいのだろうと邪推してしまう。
まぁ、元々は宇都宮さんが一人で立ち上げたため株主が一人の会社なのだし、役員報酬も配当もと出していればそうなるのも自然だろう。財務諸表の見た目を良くするためにちょくちょく増資はしているようだけれど、それも会社を解散させれば返ってくるので宇都宮さんにとっては何の問題もない。
わたしも勤めていた会社で大口の取引の記帳をすることはあったけれど、いかに八桁の数字を見慣れていても、身近にそのお金を取り扱う人間はいなかったから、雲の上の人、といったところである。
今のわたしも前よりは贅沢な生活をしているとはいえ、生活水準が違い過ぎて嫉妬する気も起こらない。
宇都宮さんは声を立てて笑い、"千歳ちゃんは車は持たないのかい"と尋ねてきた。なんてタイムリーな。
[BACK/MENU/NEXT]
[しおり]