04

 目を合わせるだけの乾杯をして、お酒に口をつける。
 赤井さんはボトルのウイスキーを、わたしはロングカクテルを頼んだので長話をする準備は整っていた。

「世間話は苦手でな。本題に入ろうと思う」
「どうぞ」

 マカロンをつまみ上げながら、彼が吐く煙の筋を眺めた。

「君は随分遠くから来たようだな」
「北海道出身だもの」
「法務局の相談記録には"出生地の記憶がない"とあったが」
「なんだ、調べてたの?」

 なるほど、彼の好奇心はわたしの戸籍に関する謎に向いていたというわけだ。
 わたしはこの件に関して何も答えないと伝えたけれど、彼が一方的に語り、それに反応するかどうかを決めるのはわたしだということにしておけば、取り決めには反しない。
 証拠を握らせたくないので適当に一番広い都道府県を言ってみたら、彼がどこまで調べているのかも何となく掴めてきた。

「興味本位でな。工作員がこんな杜撰な戸籍をつくるとは考えられん。"当たり障りのない"経歴をつくった方がいい。だから何らかの理由で無戸籍者だった君が、必要に迫られて法務局に相談に行き戸籍をつくったと考える方が自然だった。まともな生活を送っていなかったから、相談の内容もそれらしいものになった――だがそれにしては君は"きちんと"し過ぎている。そこに違和感を覚えた」

 彼の顔を見て話を聞いている素振りは見せたまま、マカロンを齧った。

「クラウセヴィッツ氏に君と初めて出会ったときのことを聞いたよ。外国人旅行者に対して、現金で日払いという意地悪な条件で通訳を引き受けたそうだな。その時の格好はスーツで、仕事帰りのようだったとも聞いている。戸籍がなくともできるようなアルバイトをしてその日暮らしの生活をしていたという公の相談記録と、差異があるとは思わないか」

 言い訳はなんとでもできる。でもそうすると、彼の覚えた違和感を気のせいではないと結論づけさせてしまう。迂闊に答えるわけにはいかなかった。
 彼は主にハッキングという手段を駆使して、あの日のわたしの行動を追っていた。そうして作り出した推測を、淡々と語っていく。
 無戸籍で教育をまともに受けられなかった。身分証明の要らないアルバイトをして暮らしていた。戸籍をつくった後は何が必要かわかっているかのように社会保険の手続きを行い、税務署に届出をして事業も営んでいる。――ひとつひとつを見れば、なんてことはない、少し珍しい経歴だ。けれどすべてが一人の人物の情報だと言われてしまうと、違和感を拭えない。彼の言うことは尤もで、けれどこれにも答えない。
 マリブ・ミルクをちびちびと飲んで渇く喉をごまかしながら、彼の話に耳を傾けるだけに留めた。
 わたしが何の返事もしないことに痺れを切らしたのか、赤井さんはとうとう電車についての話を始めた。駅にある防犯カメラをどれだけ確認しても、わたしがあの日に電車に乗る姿が確認できなかったらしい。
 東都環状線から出ることのない電車だったのに、その車両を始発まで遡ってもわたしの姿が捉えられなかった。それどころか、米花駅に着く直前の線路の脇にあったカメラにすら映っていなかったとも言った。米花駅のホームに滑り込んだ電車は、帰宅ラッシュの時間帯で移動もままならない混み具合。それなのに、線路脇にあったカメラには居たと推測できる場所にわたしが映っていなかったと言う。
 それを調べられてしまっては、言い逃れのしようがない。けれど、真実を話しても信じてもらえるとは限らない。
 何も答えずに――答えられずにいると、赤井さんが身を乗り出して膝の上に置いたわたしの右手を大きな左手で包み込んできた。

「君は、どこから迷い込んできたんだ?」
「……何も答えない、って、言ったわよね」

 それしか言えなかった。声は震えていた。まさか、始発まで遡って電車を調べられるだなんて思いもしなかった。そんなことに時間を割くなんてバカらしい――そういう考えを、捨てきれていなかった。

「あぁ。だが、君が攫われてきたとでもいうのなら話は別だ。しかしあの電車の中で大きな袋に詰めた君を外に出し、仕事帰りを装えるように鞄も持たせるなどという芸当は到底不可能だ。そんな不自然な状況で、周囲の人間が何の反応もしていないというのはおかしい。その後の君の行動とも辻褄が合わない。だとすれば――説明のつかない"何か"があったと考えた方が、よほど筋が通る」

 彼は答えに辿り着いている。最後の肯定を、わたしに求めている。
 重ねられた手に力が入って、逃がす気はないのだということを訴えてきた。

「……説明のつかない"何か"って?」
「例えるなら――"俺がシャーロック・ホームズが存在する世界に移動してしまった"、だ。夢のような話だ、そんなことはありえない。だが、そうでなければ君に関しては説明がつかない」
「どうしてそう思ったのかしら」

 的確な表現だった。合わせられた視線を思わず逸らしてしまう。これでは、核心を突かれたと言っているようなものなのに。

「君のことを簡単に調べた段階で、違和感はあった。初めて会ったはずのあの夜、すぐに警戒を解いて――それでも警戒する素振りを見せていたことも気になった。だからジョディの姓を君に知られないように徹底していた。だが、君は彼女をこう呼んだ。"スターリング捜査官"、と」

 思わず、重ねられた赤井さんの手を弾いてしまった。
 熱の残る手の甲を庇うように左手で覆う。
 彼女の自己紹介を思い起こす。見せられた書類を記憶の底から引っ張り出す。

 "私はジョディ、参加者に扮して捜査に当たることになったの"

 自己紹介のとき、確かに彼女は姓を名乗っていなかった。ブラック氏は"ジョディ君"、キャメル捜査官は"ジョディさん"と呼んでいて――他の彼らの同僚も、ファーストネームでしか呼んでいなかった。手帳も見せられていない。人員の配置についても、「J」という字を丸で囲んだ印がつけられているだけだった。
 自分が犯したミスに気づき、呼吸が浅くなる。赤井さんの顔が見られない。
 気がつかなかった。これまでずっと、うまく隠しながらやってきたはずなのに。

「警戒する素振りを見せたのは、俺が君にとって"安全な人物である"と知っているということを隠すためだろう。仮に例えたとおりになり、ホームズに出会ったとしたら――俺も同じようにする。一方的に自分のことを知られているというのは、気持ちの良くない話だろう?」

 彼の言うとおりだ。何か否定する要素を探さなければと思うのに、致命的なミスのせいで何を言っても意味がないと頭で理解してしまっている。
 口を薄く開閉させて答えを出せずにいると、赤井さんは吸い終わった煙草を灰皿に捨てて徐に立ち上がった。
 わたしが座るソファの傍らに立ち、背凭れに手をつく。上から覗き込まれるかたちになって、反対の手で顎を掬って上を向かされた。
 モスグリーンの瞳が、不信感も怒りも湛えずにただわたしを見下ろしている。

「君は"イエス"か"ノー"で答えるだけでいい。俺の推理が合っているのか否か、それだけ教えてくれないか」


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