02
零さんに病院に連れて行ってもらい、捻った足首を診てもらった。応急処置が適切で腫れはそこまでひどくなっておらず、数日安静にしていれば良くなるだろうと言われた。
仕事はしばらく翻訳業務に集中するつもりだし、問題はない。
テープで足首を固定してもらって、やり方も教わってから帰路についた。
エンジンの音に耳を傾けながら前を見ていると、零さんが口を開いた。
「大事にならなくて良かった」
「うん、応急処置のおかげでね。しばらくは家で大人しくしてるね」
「それがいいだろうな。心配だし、しばらく泊まる」
「えっ」
驚いて声を上げると、零さんはちらりとこちらを鋭い目で見遣った。運転しているのですぐに視線は前を向くけれど、怒らせてしまったことに間違いはない。
「安静にしているように言われただろう。一人暮らしで家事なんてしていたら安静には程遠いぞ」
「う……」
零さんの言うとおりだ。炊事洗濯、掃除は手を抜いたとしても水回りはやっておかないといけない。そんなことをしていたら、確かに安静にするようにという医者の言いつけを守ったことにはならない。
「迷惑か?」
尋ねる零さんの目は、頼りなげに揺らいでいた。
さっきも、犯人の確保を優先したことを申し訳なさそうに謝っていた。罪滅ぼしのように思えてしまって、そんな理由で迷惑をかけたくないという思いが募る。
「……わたしが、零さんに迷惑をかけたくないだけ」
「迷惑なんかじゃない。泊まる」
決定事項のようにきっぱりと言い切る零さんに、それならと折れることにした。
零さんはマンションの地下駐車場に車を停めると、当たり前のようにわたしを横抱きにして車から降ろした。
抵抗してうっかり落ちるのも嫌なので、大人しく指紋認証をすることに徹する。
自宅に着くとリビングのソファに座らせられた。
「着替えを取りに戻って、買い物に行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
「藤波が午後は休みを取るって言ってたぞ。連絡すればゲームに付き合ってもらえるかもしれない」
暇つぶしの手段を提案してくれるところが、さすがというか。
車のキーと財布を持って出ていく零さんを見送って、藤波さんに連絡を取ってみた。
怪我をしてしまって安静にしていなければならないから暇なのだと伝えると、情報交換のために会った時に一緒にやっている協力プレイができるアプリゲームに付き合ってくれた。一台でゲームをして、一台で通話をして。スマホの二台持ちの無駄遣いだ。
『降谷さん、本当に過保護だね』
「それコナンくんにも言われたの。……あっ、ごめんなさい力尽きちゃった」
『ちょっと待ってね、回復アイテム持ってくから。結構気に病んでるみたいだよ、穂純さんに無茶させたこと。だから穂純さんが怪我すると気が気じゃなくなるんだろうね。仕事は完璧にこなすから問題ないんだけどさ』
「だから様子がおかしかったのね」
『あの人は穂純さんの前だと随分素直になるんだな』
「そうかも」
結局、藤波さんは零さんが戻ってくるまで暇つぶしに付き合ってくれた。
零さんは美味しい料理を振る舞ってくれて、彼が仕事の間もレンジで温めるだけで済むようにと作り置きまでしてくれた。
藤波さんの言葉が正しいのなら、零さんがしたいことをさせてあげるのが一番いいのだろう。わたしが気にしていなくたって、零さんが気にしてしまうのだ。気持ちが軽くなるなら、好きにさせてあげたかった。
お風呂から上がり、零さんをお風呂に入るように促そうとリビングに向かう。
ソファに座る彼の丸い後頭部が見えた。背凭れに手をついて後ろから覗き込むと、すやすやと寝息を立てているのがわかる。……疲れているのだろうか。
頬をつついても、起きる様子はない。しばらく寝不足が続いているのか、少しかさついた頬だ。目の下に隈も見える。寝不足は鬱の原因にもなるというし、そうだとすると彼の気分が沈み気味なのも頷ける。
わたしを突き放したことも、今日の事件で犯人の確保に真っ先に動いたことも、何ひとつ責めるつもりはない。無茶をしたのはわたしの選択。怪我をしたのはひったくり事件を起こした犯人のせい。彼にはどうすることもできなかったことでまで、自分を責めてほしくもなかった。
でも、ひとつだけ、言いたいことがあるとすれば。
≪……他の女の子にあんな風に優しくしないでね、妬いちゃうから≫
醜い嫉妬が滲む言葉が、口からこぼれ落ちた。彼に意味を理解されたくなくて、咄嗟に出たのはドイツ語だった。伝わらないとわかっていても、なんだか気恥ずかしい。
ひとまずは起こさずにおいて、スキンケアや歯磨きだけしてきてしまおう。そう思って、彼の頬から手を離した。
その瞬間、ぱしっと乾いた音を立てて手首を掴まれた。
「悪い……寝てた」
零さんはわたしの手首を握ったまま、振り返ってソファの後ろに立つわたしの顔を見上げてきた。
「ううん、いいの。疲れてるんでしょう? それなのに、ごはんの作り置きまでさせちゃってごめんなさい」
「それはいいんだ、俺がやりたかったんだから」
「うん、ありがとう。起きたならお風呂に入ってきて。今日はもう寝ちゃえばいいでしょ? わたしもすることないし……」
「脈が速いな」
「え」
唐突に言われ、困惑してしまう。
けれど零さんはそれを何とも思っていないのか、じっと目を合わせてくる。
「さっきは何て言ったんだ?」
「何の話?」
「ホォー……あくまでとぼけるんだな?」
零さんは口の端を上げて、さっきわたしが発した言葉をそっくりそのまま発音した。
「語感はドイツ語だな。藤波に聞けばわかるか」
「え、あの……」
「俺に言いたくても言えないことがあるのはよくわかった」
零さんの中の何かに火をつけてしまった気がする。
あの発音のレベルなら、藤波さんに聞けばすぐにわかってしまう。
咄嗟にソファの上に置かれていた零さんのスマホに手を伸ばしたけれど、それより零さんの手が掴むのが早かった。
立ち上がられてしまったら、もうわたしには止めることができない。
「こら。安静にしているように言われただろう」
わたしがソファに座らされて大人しく腰を落ち着けると、零さんは電話をしながら洗面所に向かっていった。
藤波さんは電話に出たようで、話を続けている。……あぁ、きれいな発音で意味を尋ねられてしまった。
死刑の瞬間を待つ囚人のような思いで俯いていると、電話を終わらせた零さんがスキンケア用品を持って戻ってきた。
ローテーブルの上に持ってきた物を置いた零さんは、ソファの傍に膝をついてわたしの顔を覗き込んできた。
「可愛い焼きもちだな」
くすくすと笑う彼の耳は、少し赤い。
鬱陶しがられているわけではないとわかって、ほっとした。
コットンに美容液を含ませて顔につけられる。されるがままになっていると、顔に馴染ませるように手のひらでぺたぺたと頬を触られた。怪我をしたのは足なのでこんなことまで手伝われる理由はないけれど、零さんがしたいのなら止めることもないか、と流される。少し高い体温が心地良い。
「あそこまでするのは千歳だけだ」
「……ほんと?」
「本当。こうして触れる口実を探すのもな」
なるほど、頬を触りたくてこんなことをし出したらしい。眠る彼の頬をつついたことへの些細な仕返しだろうか。
「ん……それなら、いい」
「……ありがとな」
零さんは眉を下げて笑って、ドライヤーのコンセントを差してから"風呂に入ってくる"と言って脱衣所に消えていった。
藤波さんから、何もかも聞き出してしまったのだろうか。でも、零さんは少しだけ申し訳なさを滲ませながらもどこかすっきりとしたような表情をしていた。彼の心がいくらかでも軽くなったのなら、それでいいか。
零さんがお風呂から上がってきたらすぐ寝られるように、寝る準備を済ませてしまおう。ぐっすり眠れば、気分だってすっきりするはずだ。
怪我をしたことはコナンくんや梓さんに心配をかけてしまったのであまり良くはなかったけれど、彼に大切に思われていることがわかってうれしかった。
自分の不謹慎さに呆れながら、それでも頬が緩むのは止められなかった。
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リクエスト内容:甘
夢主が降谷の知らない言語で普段言えない気持ちを伝える
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