安楽椅子にて
「……コナンくんの周りって、本当に事件が絶えないわね……」
コナンくんと昴さんの背を眺めながらぼやく。
隣に座っていた哀ちゃんが、肩を竦めた。
「そうは言うけど、千歳さんが遺体を見たのなんて一度きりでしょう?」
確かに、今日もとあるお屋敷の二階のベランダで亡くなった人物を見ずに済んでいる。
昴さんが制止してくれたおかげなのだけれども。
「他殺体を何度も見る機会がある人生はちょっと嫌なのだけれど」
「普通はそう思うわよね。……千歳さん、顔色が悪いわ。外の空気を吸ってきた方がいいんじゃない」
哀ちゃんはそう言うなり、近くにいた佐藤刑事にそのことを伝えに行った。
警察の人に付き添われてもいいなら、という条件で許可が出され、後ろめたいこともないので受け入れて、外に出た。
「哀ちゃんはいいの?」
「あの二人が出しゃばっているなら心配要らないわよ。事件が解決するまで、ここで待ってればいいわ」
空は快晴。気持ちのいい空気だ。
外の空気を吸い込むと、詰まっていた息が少し楽にできるようになった気がした。
道端の自動販売機で飲み物を買って、哀ちゃんと一緒に飲みながら空を流れていく雲を眺めた。
しばらくそうしていると、電話がかかってきた。発信者は昴さんで、不思議に思いながら出る。
『すみません、いま外にいるんですよね』
「えぇ。哀ちゃんに"顔色が悪い"って言われて」
『あぁ、それなら戻ってきてもらわなくていいです。"r-a-n"――この単語の意味するところはわかりますか?』
「"走った"じゃなくて?」
『それだとダイイングメッセージには不自然なんです』
"犯人が走り去った"――なんて、残すまでもないメッセージだ。もっと犯人の特定に繋がる情報を残したいと考えるはずだろうし。
「何かヒントになりそうなものはないの? それだけだと絞り込めないわ。趣味……何か外国の物が好きだったとかはない?」
『そうですね……亡くなった方は、クラシック音楽が好きだったようです。それも、エドヴァルド・グリーグという作曲家の物ばかりですね』
「エドヴァルド・グリーグ……?」
顔を寄せてきて通話の内容を聞いていた哀ちゃんが、その作曲家について調べてくれた。
「エドヴァルド・グリーグ、ノルウェー出身の作曲家ね」
「ノルウェー語なら、"強盗"っていう意味だけれど……。そういえば、発砲音の後、水に物が落ちる音がしたわね。それも、二回続けて」
『"強盗"と、二回の水の音、ですか……なるほど。ありがとうございます、解決の糸口が見つかりそうです』
昴さんはすぐに電話を切ってしまった。解決するのなら良かったのだけれど。
しばらく待つと、コナンくんと昴さんが被害者の家から出てきた。とあるお屋敷の近くを通りがかっただけだというのに、拳銃の音が聞こえたところからあれよあれよと巻き込まれてしまった。
「それで? 犯人は見つかったの」
哀ちゃんは顛末だけは気になるようで、二人に問いかけた。
「犯人は――いませんでした。"ソア橋"のトリックのように、自殺を他殺に見せかけたんですよ。動機は元になったとされる実際の事件と同じく、生命保険金でした」
「しつけ糸に使われる水溶性の縫い糸をより合わせて紐にして、凶器を動かす重りと結んでたんだ。警察はすぐに池を調べて拳銃を見つけてたけど、紐がないからそのトリックに結びつかなかった。でも、千歳さんが"水の音を二回聞いた"ってことを教えてくれたおかげでわかったんだよ。ゴミ箱から、あの家の誰も買った覚えがない水溶性の縫い糸のパッケージが出てきたしな……」
その後も続く説明に、哀ちゃんは納得した様子で"なるほど"と相槌を打っている。そういえば、わたしが工藤邸にお世話になっているときは暇潰しにシャーロック・ホームズの本を読んでいた気がする。
一方でわたしは、"そあばし"というのもよくわからず、その前提の情報がわからないためトリックについてもあまり理解できず、頭を悩ませる羽目になった。
コナンくんを探偵事務所まで送り届け、哀ちゃんが阿笠邸に入るところを見守った後、昴さんに"今日は泊まっていくといい"と言われた。なんとなく事件の直後で一人でいるのがいやだったので、素直に一度帰って泊まれる準備を整えてから工藤邸にお邪魔した。
お手製の肉じゃがをおかずに和食の夕食をいただいて、お風呂上がりにミルクティーを淹れてもらい、ほっと息を吐く。
昴さんは今日はもう出かける気もなく、来客があってもわたしが対応できると踏んだようで、シャワーを浴びた後は変装を解いていた。
「千歳。昼間の話はどれぐらい理解していたんだ?」
本を片手に戻ってきた秀一さんは、からかいの色を含んだ微笑を浮かべて問いかけてきた。
「あんまりわかってなかったの、ばれてたのね。"そあばし"? っていうのが何かすらわからなくて……」
「"The Problem of Thor Bridge"、"ソア橋"だ。ホームズシリーズの作品のひとつなんだ」
そう言いながら渡されたのは、原語版の"シャーロック・ホームズの事件簿"だった。
ティーカップを置いて、本の表紙を眺める。
秀一さんはわたしの体を子どもにするように脇の下に手を入れて持ち上げて、自分がソファに座ってその脚の間にわたしの体を置き直した。それから小さなブランケットをお腹から膝にかけて載せられる。
「読んでみないか?」
ちら、と秀一さんの顔を振り返って見ると、モスグリーンの瞳が妙に輝いていた。
表情はあまり変わっていないはずなのに、なぜだろう、喜ぶ大型犬が脳裏を過る。
「……推理小説は苦手なのだけれど」
「何も考えながら読んでほしいと言っているわけじゃないさ。"ソア橋"だけでいい、頼む」
「んん……」
漫画もそうだったけれど、別に推理しながら読んでいたわけじゃない。極まれに暗号が解けたりもしたけれど、簡単なものだけだ。
元々難しいことを考えるのは苦手だ。考えざるを得ない状況に陥ってしまったから頑張っていただけで。
それをわかっているはずの秀一さんがここまで食い下がってくるのが不思議だった。
「……どうしてそんなに強情なの? 珍しい」
「ホームズは俺も好きなんだ。優作さんに許可をもらって書斎の本を読み漁るぐらいには。千歳が同じ趣味に興味を持ってくれるかもしれないと考えたら嬉しくてな。……どうしても駄目か?」
今度は叱られそうになってしゅんとする大型犬だ。
普段きりっとしている男の人が弱っているところを見せてくるのは本当にずるい、勘弁してほしい。
「……まぁ、さっきのトリックが気にならないと言えば嘘になるし。本当に、何も考えずに読むからね?」
「あぁ、わからないことがあれば聞いてくれ。何でも答えよう」
秀一さんは浮かれた様子で本を手に取り、"ソア橋"という短編が始まるページを開いた。
読み切るまで逃がしてもらえないんだろうか。
「君がホームズに強い興味を持ってくれると嬉しいんだが……無理強いはしないさ、ゆっくり読んでくれ」
"お願い"を聞き入れたことを褒めるかのように、こめかみにキスを贈られた。
秀一さんと趣味や嗜好があまり重ならないのは事実だ。彼はウイスキーを好むけれど、わたしは甘いカクテルが好きで。煙草だって、彼は日常的に苦いものを吸っているのに、わたしは彼に言わせると"甘ったるい"ものを必要に迫られたときにしか吸わない。銃や車についてだって、知識の量は雲泥の差だ。
わたしの趣味といえばおしゃれをすることだから、秀一さんも理解はしてくれるけれど特に共感はされていないように思う。変装を化粧で済ませるときに、上手くいかないと相談を受けることはあるけれど。
だから、共通の趣味を持てるかもしれないことがうれしかったのかもしれない。
秀一さんがくっついてくれることがうれしいから、もう一本ぐらい短編に手を出してみようか。きっと、秀一さんは嫌な顔ひとつせず――それどころか、喜んで解説さえしてくれるだろう。
少しばかり硬い"背凭れ"に寄りかかると、"待ちきれない"と言わんばかりにこめかみに頬を擦り寄せられる。
彼が"好きだ"と言うだけで、どことなく特別に思える英文に視線を走らせた。
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リクエスト内容:甘ほのぼの
赤井にホームズの小説を読まされる
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