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穂純さんを協力者として管理下において数日が経った。
彼女は特に問題なくこちらから回す仕事をこなしてくれているようだ。
組織の下っ端からくすねた取引文書のデータもそちらに回したと風見から報告を受けている最中、風見のスマホに着信が入った。出ていいと手で示すと、風見は軽く頭を下げてポケットに手を伸ばした。
「風見だ」
風見が電話に出るのと同時に、物音を立てないように動きを止め息を潜める。
静かな部屋では、彼女の声はよく通って聞こえてきた。
『穂純です。今いい?』
「あぁ、頼んでいたものか?」
『そう。できたから引き取りに来てもらえる? そんなに急がなくても大丈夫そうだけど。明日は杯戸町に出るから、風見の方でいいのよね』
裏社会の取引文書など、早々に手離したいと思うのが普通だろう。
明日取りに来られるなら来て欲しいようで、風見は手帳を確認して明日の約束を取りつけた。
「茶封筒に分厚いコピー用紙の束入れて、その中に一緒に入れて持ってくね」
『できれば一番上と下は適当に文章を打ち込んでおいてくれ』
「はーい」
『また明日』
「うん、それじゃあ」
カモフラージュの仕方も指導すれば身に着けてくれるようだ。
風見も受け渡しに不安があるわけでもなさそうで、彼女の順応性の高さが窺えた。
「特に問題はなさそうだな」
「はい。データはどうしますか?」
「ファミレスで受け取る。彼女の仕事ぶりも少し気になるしな……」
仕事をきちんとしてくれているという報告は、白河さんからも風見からも受けている。
それに報いなければと彼女から預かった時刻表のスキャンデータを眺めてはいるが、これといってヒントになりそうな情報はなかった。ただの一回では規則性も見出すことができない上に、彼女がこちらに来るときに使われている法則とこちらから帰るときに使うことになる法則が一致しているかどうかも怪しいのだ。東都環状線のものと彼女が使っていたという山手線の電車の発着時刻も異なる。帰る方法に至る端緒すら掴めていない状態だった。
「では、先に入りますので」
「あぁ」
ファミレスの場所を確認し、明日の午後三時にそこへ向かうことを予定に入れた。
穂純さんと顔を合わせることは少ない。代わりに白河さんと風見に情報の受け渡しついでに近況を聞いてもらっているが、帰る方法について何かわかったかと気にしている様子はあまりないという。
その進展を尋ねても答えられる相手ではないと理解しているからか、考えないようにしているからか。
それすらわからないため、少し様子見をしたかった。
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約束の時刻が近づいた頃、ファミレスのある通りを歩いていると、いつもと違い少し明るい色のスーツを身に纏い眼鏡も変えている風見の姿が見えた。
いつもは編集者と翻訳家という体で、原稿を受け取る風を装って受け渡しをしているらしい。
後を追って入り、風見が店を出る際に通るであろう通路の脇にあるテーブル席でドリンクバーを頼んだ。今日はラフな格好をしてきたし、スマホを弄っていれば単なる時間潰しに見える。
三時になり、そろそろ穂純さんが来るだろうというタイミングで席を立ち、適当なジュースをグラスに注いだ。席に戻ると風見がいる席の向かいに穂純さんが座っており、世間話に花を咲かせていた。
風見に話の主導権を握らせているのは、タイミングの調整を任せているからだろうか。外ということもあって、昨日の電話とはまったく異なる凛とした口調で受け答えしている。今こうして穂純さん個人を認識しているからわかるが、メイクや服装の違いもあり街中ですれ違っただけなら家で見た彼女と同一人物とは思わないだろう。
「それはそうと、お願いしていた翻訳が終わったんですよね」
「えぇ、どうぞ」
お茶を一杯飲み終える頃、風見が本題を切り出した。
耳を澄ませれば、紙が擦れる音がした。受け渡しの方は問題なくできそうだ。
「報酬の方はいつも通りに。またよろしくお願いします」
「こちらこそ、またよろしくね。それじゃあ、わたしはこの後用事があるから」
穂純さんが席を立ち、ヒールを鳴らしながら歩いてくる。適当なネットニュースを表示させたスマホに視線を落として顔を伏せ、やり過ごした。
"設定"に難なく順応し、スムーズに書類の受け渡しをして立ち去れている。彼女にとってはあまり嬉しくない進歩だろう。
風見が席を立つ準備をし始めた気配がしたので、そっとポケットに手を近づけた。風見が近づいてきたタイミングを見計らってさり気なくハンカチを落とす。
風見はすぐに片膝をつき、ハンカチを拾い上げた。
「落としましたよ」
「あぁ、すみません。ありがとうございます」
礼を言って掌を見せると、ハンカチの下でプラスチックが置かれた。
これで情報の回収も終わりだ。
急がなくても良さそうだとは言っていたが、確認してすぐに藤波に送るべきだろう。対処するための時間が多いに越したことはない。
時計が三時半を指す頃まで待ち、席を立った。
現在の住居に戻って確認すると、メモリの中には文書の翻訳結果と、暗号にされていてよくわからないところにメモを入れたPDFデータが入っていた。大抵の組織は情報漏洩に備えて場所や日時を暗号にしてやり取りをするのだから面倒だ。ジンが考案するものよりは分かりやすかったので助かった。
仕事に対して完璧主義な彼女にとっては、文章が繋がらなくて気にくわない部分だったのかもしれない。どうにか繋げようとアナグラムを試した痕跡もあった。そのパターンを試さずに済むように、敢えて残してくれたのだろうか。
どの言語かもわからなければ、彼女に依頼すればいい。一部だけ別の言語にされていても気がつけるし、そうでなければ暗号なのだと判別しやすい。おまけに、彼女自身は捜査の助けになる事柄を書き入れてくれる。
思いの外、良い拾い物をした。上にどこまで明かすべきか、悩むところでもある。詳細を聞かれるまでは、伏せておいてもいいだろう。なかなか腹の内を見せなかった彼女については、見定めるのに相当の時間が要る――時間をかけるのにはいい理由づけだってできる。
取引を潰しつつ自分が疑われないようにするにはどう立ち回るかも考えなければ。
藤波にデータを転送しながら、処理すべき事柄に思考を傾けた。
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