07

 堪えきれなかった笑いが口から声として漏れ出ると、千歳はむすっとして睨み上げてきた。
 ちびちびと飲んでいたアレキサンダーのせいで潤んだ目では、ただの上目遣いだ。

「な、なに」
「いや、悪い。俺は可愛い子猫に噛みつかれて怒るほどヤワじゃないんでね。痛くないから"痛い"とも言わないんだ。噛み癖を治したいなら躾をするのも悪くはないが……時々こうして素直な言葉をもらえるだけで十分だからな」

 煙草の先端に溜まった灰を灰皿に落としながら答えた。
 千歳だって人の言うことがわからないほど子どもではない。
 不快だと言えば改めてくれただろうが、不快にも思わず楽しんできたのは俺だ。千歳が我儘を言ってくれることが、可愛げのないことを言っても変わらず愛してもらえるのだと信頼してくれていることが嬉しかった。
 それに、千歳が降谷君に対してこんな態度を取ることは決してない。ある意味特別扱いのようにも思えて、少しも悪い気はしなかった。

「音信不通になったことについても、"悪いことをした"と思っているならそれだけで十分だ。悩みの種をすぐにどうでもいいと切り捨ててしまう君に、ここまで感情的になってもらえるだけで幸せなんだ」

 自らが刹那的だと判断したものに対して、千歳は感情的になれない。
 今回のことも、時間が経ち過ぎればあっさりと俺を切り捨て日本に帰ってしまっていただろう。降谷君も俺からの連絡を待っていたようでいて、夕食の場所を誘導して後から俺に連絡を寄越すことも考えていたに違いない。彼が千歳の信頼を裏切らないのだとすれば、千歳をよく知る彼の行動にも納得できる。
 諦めが早いことを彼女の欠点だと思う一方で、直させる気はなかった。千歳が色々な事柄に心を割くようになってしまったら、余計に疲れて投げやりになってしまう。俺がその対象になってしまうことは耐え難い。そんなことになるぐらいなら、生活に支障がないのだから直さなくてもいいだろう、と結論を出してしまった。
 千歳はどこまでも怒る気のない俺に呆れたのか安心したのか、眉を下げて泣きそうな顔で微笑んだ。

「……本当、ばかなひと」

 愛おしいという情が込められた、優しい悪態だ。
 わかりやすく好意を乗せるくせに、可愛げがないなどと言うのはいかがなものか。
 素直じゃない言葉も喜んで受け取ってしまうのだから、俺もどうにかなり始めているのかもしれない。

「君に惚れこんで頭のネジを吹っ飛ばしてしまったのさ」
「ふふ、じゃあ責任取らなくちゃね。……言われるがままにホテルのキャンセルしてきたけど、泊めてくれるのよね?」

 ここに来て放り出すような男だと思われているわけではなく、単なる確認らしい。
 これが好みだろうとよく考えもせずにアルコール度数の高いカクテルを飲ませた。そのせいで酔って色香が増した恋人を放り出すなど、男としてどうなのかという話でもある。

「もちろん。ホテルほど立派ではないが、居心地は絶対にいいと保証しよう。家主が大歓迎なんでな」
「嫌味なんだかわからないわね、その物言い」
「随分と前にしたやり取りを覚えていてくれているようだな」
「多少はね」

 グラスを空ける頃には酔いが回ってきたのか、甘えるように寄りかかってくるようになった。
 "これが癖になるんだ"と思いながらバーボンを飲み干す。煙草の火も灰皿の底で潰し、帰れる状態になった。

「千歳。そろそろ帰るとしよう」
「はーい」

 目が合ったスタッフに会計を頼んでから、千歳の膝の上に置かれたままのスマートフォンをハンドバッグに仕舞ってやり、そのまま肩にかける。
 千歳が"お財布お財布"とバッグに手を伸ばす。酔いでもたついているのを尻目にカードで会計を終えた。
 気を利かせて千歳の荷物を運び出してくれていたスタッフにチップを弾み、礼を言ってバーを出た。
 タクシーで自宅からほど近いコンビニまで行き、少し買い物をしてから歩いて自宅に向かった。
 千歳は恥じらうこともなく指を絡めて手を繋ぎ、上機嫌だ。

「アメリカに来て良かったわ」
「ん?」
「秀一さんの職場も見られたし、あんまり聞けなかった本音も聞けたし。わたしも、ずっと不安に思ってたことを聞けた」
「君にとっていい思い出になるのなら良かった」

 元はと言えば"連絡が取れなくなるほど"忙しくなる、と伝えなかった俺の落ち度が引き起こしたことだ。
 それまで千歳からの連絡にはジョディに目を剥いて驚かれるほどまめに返事をしていたのだから、それが突然なくなって不安そうにしている彼女から状況を聞いた降谷君が、"赤井が一方的に倦怠期に突入した"と考えてもおかしくはなかった。

「しかし、君との鬼ごっこは悪くなかったな」
「またやりたいとか言わないでよ? あれ旅費がバカにならないんだから」
「言わんさ。景色を見るたびに、君と一緒にゆっくり見たいと考えていたよ。その考えに浸る暇もなく逃げ回られたが」
「……じゃあ今度は一緒に行きましょう」
「あぁ」

 千歳を自宅に迎え入れ、しばらく帰っていなかったがために埃の溜まった部屋を軽く掃除している間にシャワーを浴びさせた。
 綺麗にした部屋に千歳を残し、入れ替わりでシャワーを浴びた。
 ソファに座りコンビニで買ってきたミネラルウォーターを飲んでいた千歳は、俺を見るなり"わぁ"と感嘆の声を上げた。それからソファから立ち上がり寄ってくると、ぺたぺたと二の腕を触ってくる。

「タンクトップ着てるの新鮮! ちゃんと筋肉ついてるのね」

 はしゃぐ千歳を抱き上げると、可愛らしい悲鳴が上がった。
 首に抱きついてくるのを受け入れつつ、部屋の電気を消して寝室に向かう。

「お誘いに応えてやりたいのは山々なんだが、明日から当分仕事なんだ。休みをふんだくり過ぎた」

 数日前からあったボスからの"そろそろ復帰してくれ"という連絡は、今日の昼には強制力を持ったものになっていた。
 スマートフォンにも"知恵を貸せ"というメールがいくつか入っていた。

「!? さ、そってなんか……」

 千歳は仕事云々は耳を通り抜けてしまったらしく、"お誘い"という言葉に反応して顔を真っ赤にし、俺の首から手を離した。
 驚いて離れた拍子に後ろに倒れる体を、そっとベッドに横たえる。
 状況が飲み込めず呆然とする千歳の隣に寝ると、千歳は何を思ったのかぴったりと俺の腕にくっついてきた。

「誘ってない。久しぶりに会えたんだから、これぐらいいいでしょ」

 可愛らしい添い寝のおねだりに、思わず深い溜め息が漏れた。
 掛布団を足元に追いやり、驚く千歳に覆い被さって唇を塞ぐ。保湿のために塗ったらしいリップクリームが唇に触れた。
 唇を重ねたのは数秒、少し顔を離すと淡いルームランプの光ですらわかるほど赤い頬が見えた。

「君は明日早起きをする必要がなかったな」
「え、……え?」
「朝食は作っておくから、好きな時間に起きて食べるといい。それと今夜はひとつ学習すること。久し振りに会った恋人に珍しいスキンシップをされて、その気にならない男はいないんだ」

 目を白黒させていた千歳は、数秒置いて言葉を飲み込むと、視線を逸らして"ばか"と弱々しい悪態を吐いた。
 "いや"とも"だめ"とも言われない。これはもう合意だろうと唇を重ねれば、千歳は満更でもなさそうな様子で目を伏せた。


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リクエスト内容:切→ほのぼの
倦怠期気味の二人に誤解で亀裂が入る


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