03

 秀一さんたちの滞在時間はごく僅か。"そろそろ出ようか"という秀一さんの言葉で、その場はお開きとなるようだった。この後どこに行くのかはわからない。後ろを通るときに、気がつかれなければいい。べつに後をつけてきたわけでも何でもないのだし、見つかったっていいのかもしれないけれど、ただただ気まずかった。
 声のトーンを落としてサリーと雑談をしながら、二人が背後を通り過ぎるのを待つ。――と、女性が肩にかけていたバッグがテーブルの端に置いていた氷だけが入ったグラスにぶつかった。
 あ、と思った時には、傾いたグラスは大きな手に捕まえられていた。

≪すまない、連れの不注意で――≫

 身を屈めてグラスを捕まえた姿勢のまま、わたしの顔を見た秀一さんはモスグリーンの瞳を丸くして硬直した。
 あぁ、良かった。目の下の隈は相変わらずだけれど、痩せこけた感じはしないからしっかり食べてはいるようだ。

≪シュウ?≫
≪!≫

 女性の声に僅かながら反応する肩。
 仕事だと理解しているフリでもすればいいのだろうか。

≪いいえ、こちらこそごめんなさいね、良くない場所に置いていたわ≫

 彼の手からグラスを取って、真ん中に寄せた。融け始めた氷がかろんと音を立てて別の氷やグラスとぶつかる。
 気まずそうに視線を逸らす秀一さんに向かって、にっこりと笑んで見せた。

≪偶然ね、ミスター。先日は助けてくれてありがとう、とても感謝してるわ≫

 当たり障りのない言葉を向けると、同僚の女性も納得してくれたようで特に追及はされなかった。秀一さんも当たり障りのない返事をしてきて、最後にもう一度謝罪をして席を離れていった。
 会計を終えてバーを出ていく二人の背を見送り、ドアが閉まったことを確認して深い溜め息をつく。

≪びっくりしたわ……、チトセ、本当に大丈夫?≫
≪えぇ……≫

 チョコレートをつまんで、口に放り込む。甘さが口の中で広がって、けれど気持ちは晴れそうにない。

≪ドイツ行きたい……≫

 エドとヘレナに会いたい。二人にショッピングに連れて行ってもらって、ヘレナの手料理を食べて。
 勇気を出して秀一さんに会いに来てみたところまでは良かったけれど、結果はこれだ。
 降谷さんにだって、いい報告なんてできない。
 帰りづらくてぽつりと漏れた本音は、サリーにしっかりと拾われた。

≪たしかフランクフルトあたりなら国際線使って行けるわよ? 社長に連絡してみましょうよ≫

 サリーの言葉で、決心がついた。
 日本にも帰りづらいし、秀一さんと会うのも怖いし。この辺りで、アメリカを出てみるのも悪くないかもしれない。エドたちが住む街を見たいというのもある。
 時差の関係ですぐには連絡できないけれど、わたしが決断するとサリーが"すぐに帰って準備を始めましょう"と言ってくれた。
 付き合ってくれたお礼にお会計はわたしが持つことにして、バーを出た。トムとも合流してこれからの予定を伝えると、トムも何も言わずに了承してくれた。
 その晩のうちに荷物をまとめて、翌朝にサリーに連絡を取ってもらった。
 ヘレナは事情も聞かずに快諾してくれて、昼にはチケットを取って夕方の便に乗ることが決まっていた。
 昼間は観光を少し続けて、お土産を自宅に送ってもらえるようにエドの会社にお願いをして、ダレス国際空港に向かった。
 空港のラウンジでフライトの時間を待ちながら、スマホを眺める。秀一さんからの連絡はなし。溜め息をついて、スマホをバッグの中にしまった。
 約八時間のフライトの後、エドとヘレナに迎えられて二人の家にお邪魔した。
 こんな珍妙な旅になってしまった経緯を伝えて、素直に謝った。

≪エド、ヘレナ、ごめんなさい。たくさんわがまま言っちゃって≫
≪何を言っているんだ。たまのわがままなんだから思い切りでいいんだよ≫
≪そうよ、チトセ。ここにいる間は存分に甘えてちょうだい。そうだわ、ヨーロッパ旅行なんてどうかしら! チトセの好きそうなものがいっぱいあるわ≫

 秀一さんから連絡が来ないということは、あの状況について何か弁解する気も話し合う気もないということだ。
 "あれも仕事のうちだ"って、嘘でも連絡をくれたら少しは気持ちも軽くなったのに。
 落ち込むわたしを見兼ねてか、トムが明るい口調で割り込んできた。

≪奥様とチトセがそう言うんなら俺たちもお供するよ、なぁサリー≫
≪そうねトム≫

 そんな風にしてヨーロッパを巡る旅行をすることになった。エドに頼まれた商談の通訳のために一度戻ることはあったけれど、それ以外はヘレナのお勧めスポットを聞いて見に行ったり、観光パンフレットを見て行きたくなったところに行ってみたりと自由に過ごした。
 降谷さんからの状況確認の連絡はさすがに無視できずに、観念して現状を正直に報告した。少しだけ羨ましがられて、それから面白がって"赤井にはしばらく内緒にしておく"、と言われた。その後は定期的に連絡を入れているので安否は気にされていないだろう。
 数日経って、スマホに秀一さんからの連絡が入り始めた。日中はバッグの中にスマホを入れっぱなしで、夜に連絡を確認して気がつく。なんとなく応じる気になれなくて、良くないとわかっていながら折り返すことができなかった。メールも何が書かれているかわからないのが怖くて、開けないまま。
 ちょっとだけ、やり返したい気持ちもあった。連絡が一方的なものになって、寂しくなかったわけじゃない。そのうえ、久しぶりの再会があんなかたちになるだなんて。思い出したら腹が立ってきた。
 この際だから、思いっきりヨーロッパ旅行を楽しもう。
 哀ちゃんとコナンくんにお土産のリクエストを聞くメールを送って、スマホをバッグにしまい込んだ。

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