26
見知らぬ場所に放り込まれて、何ヶ月もかけて社会に馴染む努力をしてきた。元が似た環境だったとはいえ、戸籍という管理制度があるこの国で真っ当に生きようとするのは、何の後ろ盾も持たない彼女にとって、こちらの想像が及ばないほど大変なことだったはずだ。
死にたくない、怖い目に遭うのはいやだ、苦痛を味わいたくない――それはわかった。一般人が抱く普通の感情で、彼女も例に漏れなかったというだけだ。
事情を知らない人間が見れば、穂純千歳という女性は"普通"だった。特技を活かして事業を営み、お洒落と夜のバー巡りを日々の楽しみにする、自立心の強い女性。
彼女は"普通"だった。――"普通"すぎた。
有り得ないはずの体験をしたにしては、落ち着きすぎていないか。俺自身が接触した時間はごく僅かだとはいえ、白河さんや風見からの報告もある。彼女はいつ会っても、あの吊り目に合った凛とした笑みを浮かべて、それを崩しもしなかった。自分の命が狙われているとわかっても、落ち着くのがあまりにも早かった。
浮かんだ疑念と二人からの報告を総合して考えて、ひとつの結論に辿り着いた。
彼女は俺たちを現実に存在している人間だと認識して、それでも自身に起きた事象については受け入れられずにいるのではないか、と。
ここで過ごしたあまりにも長い時間を、すべて"夢"として片付けたがっている。――だから、恐怖心を抱いてもすぐに落ち着きを取り戻した。
眠りについても帰れなかった。夢ならいっそ死んでしまえば覚めるかもしれない。そんな淡い期待を抱いている可能性だってある。
それはあまりにも危険だ。"死"という未体験のものに怯えながらそれに縋る道を考えてしまったら、取り返しのつかないことになる。
だから、夢心地ではいさせてやらないと決めた。彼女にとって踏み込まれたくない領域に、土足で踏み込む罪悪感がなかったわけじゃないが。
問いを投げかけられた穂純さんは、膝の上に置いた手に視線を落として考え込んだ。その顔に表情はない。きっと思考と感情を整理するのに時間がかかるだろう。そう思って、返事は急かさなかった。
「――うちに、かえりたい」
一言、ぽつりとこぼされた。子どもじみて率直な、おそらくは彼女のいま一番強い願い。
表情をどこかにやってしまった彼女の目が揺らいで、堪えることも忘れたのだろう涙がぽたぽたとこぼれ始める。
「ど、して……わたしだったの……!」
起きたことはどうしようもない、そんな風に考えることはできなかっただろう。
一瞬にして何もかも失った。独りで生きるしかなかった。彼女に圧し掛かる絶望は、受け入れるには重すぎたのだ。
だから考えないようにしてきた。意識して何も感じない振りをした。精一杯、"普通の女性"を演じ抜いてきた。
口元を押さえて苦しそうに嗚咽を飲み込み、代わりのように"帰りたい"と繰り返し口にする姿が痛々しい。遠慮なんてしていないで、いっそ泣き喚いてしまえばいい。それを言うことが許される関係ではない気がして、口を無理矢理閉ざした。苦しそうに丸められた背を撫でようとした手を、膝の上で握り締めた。
泣き止ませることなんて、できなかった。
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しばらく苦しそうに泣いていた穂純さんは、落ち着いてきたのか呼吸もだいぶ楽になったようだった。
心なしかすっきりしたようにも見える。
「落ち着いたか?」
頃合いだろうと声をかけると、こくりと頷かれた。
「ごめん、なさい……」
「その様子だと、今ようやく自分の身に起きたことを現実だと受け止めた、といったところだな」
「……さすがね。わたしよりわたしのことをわかっているんじゃないかしら」
普段の調子を意識して言葉をかけると、穂純さんはいつもの軽い調子で返事をしながら、ティッシュで涙を吸い取るようにして拭った。
ようやく顔を上げてくれて、視線が合わさる。
穂純さんは眉を八の字にして、困ったように微笑んだ。
「ちょっとだけ、すっきりしたのも事実なの。夢ならいいなって、受け入れるつもりもなかったから」
無遠慮に本心を暴いたことに対して、怒ってはいないようだった。
「だけど――」
緩んだ口元が、また引き締まる。
「わたしはここにいる。帰るためには、生きていかなくちゃならない。生きていくには危険なことを、知りすぎている……」
彼女は知らない振りをできるだけの訓練を積んでいない。
組織の幹部と鉢合わせでもしたら、何かしらの反応を見せてしまうかもしれない。
白河さんもそれを懸念して、彼女にとって身近な"経歴を暴かれる"ことへの対策から始めたのだろう。今後は情報収集も手伝ってもらえたら、そんな打算も込めて。
「……白河さんにね、嘘のつき方を教えてもらってるの。危ない情報を聞いたとき、何を意識すれば動揺を隠せるのかも」
彼女の口からも、予想を裏づける言葉が出てきた。
何を聞いても知らない振りができれば、安全度は格段に増すだろう。
今後も協力をしてほしいとは伝えたが、彼女がこちらの打算的な考えにまで意識を巡らせないのなら教える必要もない。白河さんが穂純さんを気に入って可愛がっているのも事実だ。
「白河さんか……、彼女、やけに穂純さんのことを気に入ってるからな」
「彼女は降谷さんの先輩?」
「あぁ。今の体制だと僕が指示を出すことの方が多いがな。あの人は街中うろついて情報集めるのが仕事みたいなものだし、会えばフォローしてくれるはずだ。ここ数日もそうだっただろ?」
「うん、"黒川"って正反対の名前で出歩いてるのね」
姓も"白"を"黒"に変えておまけ程度に同じ読みで違う漢字を使い、名前に至っては本名の"りえ"をひっくり返して"えり"だ。別件で名前を変えるときも似たような名前を使おうとするのだからこちらの肝が冷える。本人は命が懸かっているし、存外気づかれないからという理由もあって最終的には通ってしまう。
苦笑いでここにいない人物に対する苦言を漏らすと、穂純さんも苦笑した。
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