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「このことはね、あなたに話していいかも悩んでいるの。聞いたら、あなたは動かざるを得ない。管轄外なら、然るべき機関に連絡をする。……それが、正しいことだから」

 穂純さんは封筒をしっかりと握ったまま、まだ迷いを見せていた。
 言葉から推察するに、何か犯罪に関わる情報なのだろう。それを俺が聞けば、防止か解決のために動くと理解している。

「正しいとわかっているのに、思い留まってしまう理由があると?」
「これからの未来が、変わってしまわないか心配なの」

 彼女の言葉の真意を汲み切れずに、続きを促した。

「わたしは、物語の全部を鮮明に記憶しているわけじゃない。だから、相談しようと思っていることに関わる人物が、物語にとって重要な人物かどうかもわからないの……。もしかしたら、降谷さんの捜査に何か役立つ情報を持っている人物かもしれない。降谷さんを追い詰める人物かもしれない。それがわからないなら、いないはずのわたしが人の生き死にに関わるのは、きっと得策じゃない」

 訥々と語られる不安。
 それはとてつもなく傲慢で、しかし懸念は俺のことを考えてのものだった。
 物語において重要な人物なら、それは潜入中の組織に関係している人物だということになる。生かすが吉か、見捨てるが吉か。それを迷っているのだろう。
 穂純さんは封筒を膝の上に置き、身を屈めた。

「降谷さん、右手見せて」
「え? ……あぁ」

 彼女が気にしているのは、庇った際についた手の甲の傷だ。
 素直に手を見せると、穂純さんはほとんど見えなくなっている傷に視線を落として自嘲気味に微笑んだ。

「"たられば"の話に意味がないことは知っているの。でも、わたしは一度見捨てたし、あなたに怪我を負わせたわ」
「見捨てた?」
「……えぇ。死んではいないみたいだから、それは良いんだけれど」

 穂純さんの様子を観察する。多くは語らない――語れない彼女の瞳の奥に見え隠れするのは、罪悪感だ。
 組織に関わって辛い思いをすることに怯える一方で、誰かの助けになれるかもしれない事実に目を背け続けていることに罪悪感を感じている。
 徐に右手を取られ、薄らと瘡蓋ができた傷を人差し指でなぞられた。

「これも、結局小さな傷だ。穂純さんが怪我をしなくて良かったと思っているし、君が気に病むことじゃない。もう瘡蓋にもなって、治りかけてるんだ」

 幸い、掠めただけで済んだ。彼女の叫びと藤波の咄嗟の声、それを信じた己の判断で、傷はこれだけに留められた。
 穂純さんは納得した様子を見せずに、眉を下げた。

「えぇ、でも、この傷が現実なの。きっと痛くて、熱くて、ちゃんと守ってもらったわたしにはわからない銃弾の味。それを想像することは、……いま置かれている状況が長い夢だって思い込むには、わたしには生々しすぎた」
「……気にしてるのか? もう侮辱されているなんて思っていない」

 彼女の話を戯言だと考えていたときに、その物言いに苛立ちを向けたことはあった。
 しかし、現状においてはそれすら的外れだった。むしろ、彼女が自分のいる場所を現実だと受け止めることの方が難しいに違いない。

「知ってるわ。ちゃんと受け止めてくれたって、わかってる。でも、そうしたら未来予知と同じなの」

 ここが現実で、それでも彼女の知る物語のとおりの出来事が起こっているのだとすれば、それは確かに未来予知だろう。
 彼女のこれまでの言葉、窺える尋常ではない強さの罪悪感。
 大切に抱えられたままの封筒に視線を向けた。

「……君は、傲慢だな。君の話から察するに、その封筒の中には人の生死に関わる情報が入っているんだろう?」
「そうよ」
「穂純さんに倫理観が欠如しているとは思えない。きちんと話して俺が然るべき措置をするのが正しいと、そう言っていた」
「だって、人が殺されるのをわかっていて見過ごすなんて、間違ってる」

 やはり、これから起こるかもしれない殺人に関する情報か。
 どうにかして情報を受け取らなければ、救える命をひとつ取りこぼすことになる。そしてそれは、彼女自身を罪悪感で苦しめる結果にしかならない。
 これまでの彼女の行動を思い起こし、心を動かせる言葉を探る。

「そうだ。君は一度"見捨てた"ことで苦しんだ。なら、今度は見捨てないでみればいい。後悔するなら僕も一緒だ、君の話を聞いて動くのは僕なんだから」

 彼女はどうしてか、俺に寄り添った行動を取ろうとする。探られることに対して嫌そうにしながらも協力を拒まなかったこと。探りを入れることを許してくれたこと。彼女が"存在する"ことで変わる出来事が引き起こす影響についても、俺を軸に考えていること。
 俺に対して好意的で、基本的に利害が衝突する行動を取らない。それなら、こちらから寄り添ってやりさえすれば。
 揺らぐ瞳にあと一押しだと断じて、続く言葉を口にした。

「物語の中じゃなく、現実に生きていると実感してしまったんだろう? それなら、穂純さんも生きたいように生きればいい。僕だってそうやって生きている。その結果が君の知る未来なら、それはたまたまだ。そう割り切ってしまえばいい」

 穂純さんは口元を引き結んで視線を逸らす。
 これを言うのは酷かとも考えた。だがもう手段は選べない。――人の生き死にに関わることが、得策ではないと言うのなら。

「もう遅い」

 彼女ははっとして息を呑んだ。一言で、何を言いたいのか理解したようだった。

「もう、遅いんだ。米花駅の交番でクラウセヴィッツ氏と出会ったあの日から、穂純さんは彼の日常の一部だ」

 あの夜クラウセヴィッツ氏と出会わずに、彼女が手助けをすることもなかったとして、宇都宮氏は娘を助けられただろうか。当時、警視庁所属の刑事が潜り込んで気を窺っていたのだから彼女がいなくても助けられたのかもしれない。彼女がいたからこそ、少女は無事だったのかもしれない。
 残っているのは結果だけで、穂純さんが存在したことで何かが変わったのかどうかすら、誰にもわからないのだ。
 穂純さんは唇を震わせながら、封筒に視線を落とした。

「……わたしは話を聞いただけ、聞こえた話から、関連しそうなことを調べただけ。これが正しいかどうかも、わたしにはわからない」
「殺人が起きることは確実なのか?」
「それだけは、確実なの。本当に実行に移されるのだとしたら、だけれど」

 おそらく彼女は、具体的な殺害計画を聞いている。そこから関連する事柄を調べて動機を推測しているに過ぎない。
 そこまでわかれば、重要なのはその計画だ。

「教えてくれ」

 相変わらず瞳を不安で揺らしたまま、こくりと頷かれた。

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