23
落ち着いたインテリアの仕事部屋の中、中央を陣取るようにして佇むソファを勧められて座りつつ、棚を開ける穂純さんを見守る。
茶封筒を二つ取り出して戻ってきて、ひとつを俺に渡しながら彼女も対面に腰を落ち着けた。
持った感触からは、中にカード類が入っていることぐらいしかわからない。
「中を見ても?」
「どうぞ」
綺麗に片付けられたテーブルの上に、口を開けた茶封筒の中から中身を滑り出させた。
出てきたものに視線を走らせる。運転免許証、健康保険証、知らない銀行のキャッシュカード、こちらも知らないカード会社が発行したクレジットカード、そして電車の定期券。彼女がこのタイミングで見せるなら、これは、やはり――彼女の本当の身分証だ。
免許証は、住所が今とはまったく異なるものになっていた。健康保険証は、そもそも現時点で持っていること自体がおかしい。仮に過去にどうにかして雇用されたことがあったとしても、辞めるときに返納しているはず。それに、国民健康保険に加入していることの確認も取れている。銀行やカード会社は、よく知っているものと名前がところどころ違う。よく創作物では現実にある会社の名前をそれとわかるように変えているが、それと同じことなのだろうか。定期券については、駅名が東都環状線のものと似ているということぐらいしかわからないが、これもカードと同じように考えていい。
詳細に調べる手段がないというのに、これだけおかしな点が出てくるとは。
急かしもせずじっとこちらを見て待っていた穂純さんに、説明を求める視線を向ける。
穂純さんは眉をへにゃりと下げて、膝の上に置いた手を握り締めた。
「……それがわたしの本当の身分証。米花駅で電車を降りた時、持っていた鞄に入れていたもの」
言われて、手に持ったままの免許証を撫でる。ICチップを使って認証されるようなことがなければ、たとえば店での年齢確認程度には問題なく使えそうなほどのクオリティ。――これが、偽造された物だとすればの話だが。
「偽造には、とても見えないな。……これをつくる、意味もない」
こんな風に隠し持つぐらいなら、作ったところで無意味だ。偽造するだけで、有印公文書偽造罪にあたる。彼女がリスクを背負ってまでこんなことをする理由がない。
彼女は戸籍を作るところまでは法を犯しているが、そこからは罪を重ねるのはごめんだと言わんばかりに真っ当に運転免許の取得や預金口座の開設をしている。
「自分で免許取って驚いたの。まったく同じだったから」
穂純さんは弱り切った表情で微笑んだ。
持っていたら危ないとわかっていながら、捨てるに捨てられずに今日までいたのだろう。
「……ここに書かれた住所や、健康保険証に書かれた勤務先。調べてもいいか?」
彼女が警察にこれを見せる意味。所持するリスクを考えてのことでもあるだろうし、話の信憑性を高めるための材料になればとも考えているだろう。
案の定、穂純さんはすんなりと頷いた。
「えぇ、多分どこにもないでしょうけれど。……いっそあってくれたら、見つかるのなら、その方がありがたいのにね」
「そうだな……。カード類も、いいのか?」
「どうせ使えないし、見つかって偽造だなんだって言われたら堪らないしね。調べたいのなら好きに調べてもらってかまわない。代わりにしっかり保管しておいてほしい、わたしが帰れるってわかったら返してほしい。要求の方が多いけれど、お願いできる?」
どうやら帰ることは諦めていないらしい。だからまだ、これらを捨てずにいる。
預けて安心できるところがあるのなら、そうしたいというのが本音だろう。
これに関しては断る理由もなかった。そして要求が多いことを気にしてくれるのは、こちらにとっても好都合だった。
「もちろん。ただしこちらにも条件がある」
「条件?」
穂純さんはきょとんとして俺の顔をまじまじと見てきた。
こちらの立場を口外する気がないのはわかっているはず。それなのにそれ以外に何かあるのか、と言いたげだ。
「今後も協力を求めたら、でき得る限りでいいから応じてほしい。もちろん報酬は支払うし、危険が及ぶようなことは絶対にさせない。ただ、穂純さんが持っているパイプは魅力的だし、どんな言語も訳せるのなら情報収集に有用だ」
エドガー・クラウセヴィッツ氏の手腕、宇都宮エンジニアリングの技術力は理想的なレベルにある。どちらも顔は広いし、協力を得られるのならこれほど良いことはない。二人の紹介で得ている顧客の中にも、協力者にできないかと気にしている人物はいる。今回の件で、クラウセヴィッツ氏には恩を売れた。宇都宮氏にも機会があれば協力を仰ぎたい。そのための繋ぎには、彼女が最適だ。
そして、彼女自身があらゆる言語を扱い、情報収集を行うことができる。同時通訳が得意だと売りにしているだけあって、喧騒の中でも正確に音を聞き分ける能力があるようだし、それを別の言語に訳して口にできるのだから、要領もいい方なのだろう。
断る道はないと、わかっていた。話の運び方が意地悪だと言われてもかまわない。
「それは……」
彼女は床に視線を落とし、抱えたままだったもう一つの封筒を握る手に力を入れた。
「もちろん、協力は、するわ」
――そうか。彼女が相談したいことというのは、彼女のことではなく、たったいま求めた"協力"についてだ。
彼女のことだ、どこかで何か聞いてしまって、それをどうすべきか悩んでいたのかもしれない。
元々協力をしてくれる気があったのなら、話は早い。
「どうやら相談というのはそのことみたいだな」
見せてもらった本当の身分証を仕舞いながら、安心できるように笑みを向ける。
穂純さんは安堵と迷いの入り混じった表情で、浅く頷いた。
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