01

 ドイツ語を母国語とする夫婦は、どちらも五十代前半。夫君はエドガー・クラウセヴィッツ、夫人はヘレナ・クラウセヴィッツと名乗った。
 知人の紹介で通訳兼ガイドを雇って日本へ来てみたら、待ち合わせ場所にそのガイドは現れず、あらかじめ聞いていた連絡先に電話を入れても通じなかったらしい。

≪……それ、詐欺ですよ≫

 交番で困ることになった経緯を聞いていると、ふとそんなことが浮かんだ。

≪詐欺?≫
≪通訳の料金、あらかじめ旅行の日程を伝えて決めてもらってから、前払いしませんでしたか? その知人を通じて≫
≪あぁ、確かに……通訳料は自分が渡すから、と言われて知人に預けたな。しかし、打ち合わせで何度か電話で話したことがある≫
≪じゃあ、その通訳をすると言った人間が共犯だとしたら? 連絡がつかなくなったのもそれで納得がいきますし、その知人はあとであなたたちに問い質されても"そんな奴だとは知らなかった、自分の知ることじゃない"と白を切り通せば終わり≫
≪……何てこと≫

 可能性を思い浮かべて告げると、夫人は顔を青くした。
 知りもしない彼らの知人を悪く言う必要もなかったかと、ごまかすように笑ってみる。

≪とはいっても、あくまで可能性の話であって、まだそうと決まったわけじゃ……≫

 場は和まず、エドガーさんは険しい顔をする。
 どうやら随分的を射た発言をしてしまったようだ。穿った見方をして適当に言っているだけなのに。

≪いいや、その知人は"知人"でしかないんだ。"友人"と呼べるほど、気を許していいと思える相手ではなかった≫
≪どうしましょうエド、せっかくの旅行なのに≫

 困り果てているようすの二人の視線が、同時にこちらを向いた。
 こちらにとって嬉しいような、遠慮したいような、そんな提案を受ける気がする。

≪ねぇチトセ、あなたさえよかったら、私たちの旅行の通訳をしてくれないかしら≫

 予想は外れず、何とも言い難い提案が投げかけられた。
 この夫婦、果たして学習したのだろうか。ある程度身元を知っている相手に詐欺をはたらかれたというのに、つい先ほど出会ったばかりの人間に同じ依頼をしてしまうだなんて。
 しかし、お金が入るならありがたいことは事実。

≪……わたしはかまわないけれど、費用はどうするの? あなたの知人に持っていかれて、さらにわたしにも――なんて、馬鹿馬鹿しいんじゃないかしら≫
≪いいや、あれをあいつとの手切れ金だと思えば安いものだ≫

 どうやら疑いは確信に変わってしまっているらしい。
 まぁいいか、誰かは知らないけれども仕事を譲ってくれたことに感謝することとしよう。
 なぜ自分がドイツ語を話せているのかはよくわかっていないが、使えるものは使ってしまえ。

≪そうね……1日2万円でどうかしら。わたしも業としてやっているわけじゃないし≫
≪いいだろう。改めて、私はエドガー・クラウセヴィッツという。海運会社の社長をやっていて、今回は妻との結婚30年目の記念日を祝うために日本へ来た≫
≪わたしは穂純千歳。本職はしがない経理ウーマンよ。今日からしばらく休暇だから、わたしの予定は気にしなくていいわ≫

 とんでもない肩書は聞かなかったことにして、素直に名乗った。
 どうやら旅行の日程は1週間あるらしい。確かにそんなに長い期間通訳なしでいられるはずもなく、折角の結婚記念の旅行ならば楽しみたいというのも頷ける。
 通訳料はその日の終わりにその日の分だけを手渡しで、もし代わりの通訳者が見つかるのならばそちらに切り替えてもよい、ホテルの宿泊料だけはクラウセヴィッツ夫妻持ち、といくつか取り決めをして、食事を終えてからロビーで簡単に契約書を作った。契約書のコピーをつくり、それぞれにサインをしてもらう。こちらもサインをすれば、契約は成立だ。
 宿泊料は浮いて、当分は食事代や服飾費だけで済む。少しだけほっとしながら、クラウセヴィッツ夫妻と別れた。


********************


 結果として、一週間の通訳業務は何ら問題なく終わった。
 現金で日払いは少し意地悪かとも思ったが、問題のない程度には現金を所持していたらしい。
 空港まで見送りに行ったら、チップまでもらってしまった。……そして、次の仕事の約束も。

≪チトセ、二週間後にこちらに商談に来る予定があるんだ。もしよかったら、その時にも通訳を頼めないかい≫
≪商談を? そんな大役、会ったばかりのわたしになんて……≫
≪親しくない知人の紹介などこりごりだ! この一週間で君の人となりも理解したつもりだよ≫
≪……わかったわ≫

 あの夫妻も人柄がよく、仕事を引き受けること自体はいやではなかった。
 それに、生活費が稼げるのなら願ったり叶ったりだ。携帯は壊れていると言って連絡先をごまかし、待ち合わせ場所をその空港にした。
 次の仕事が決まったことは喜ばしいけれど、解決しなければならない問題はいくつもある。
 一週間泊まっていたホテルはクラウセヴィッツ夫妻とともにチェックアウトしているので、ひとまずネットカフェで格安ホテルを探した。極力安く、長く滞在できるホテルを探して予約をし、当分はそこに落ち着くことにした。
 短期賃貸マンションは、契約にどうしても身分証明書や保証人が必要だ。偽造と思われかねないものを提示することは避けたかった。
 旅行用のキャリーバッグを購入して、数日分の衣類と日用品、そして海運業に関する本を買った。仕事帰りに着ていたスーツはクリーニングに出しておいた。
 身の回りが整うと、考えるしかなくなってしまう。山手線に乗っていたはずが、どうして突然東都環状線に変わってしまったのか。本当は降りるべきではなかったのではないか。

「……身分証明書」

 とにかく不審人物と思われないために身分証明書がほしい。念のために本籍地の役所に戸籍抄本の発行依頼をしてみたが、"そのような方は登録されていない"と言われてしまった。
 しかし、どこかに勤めて社会保険証をもらおうにも正社員で雇ってもらう方が難しい。運転免許証やパスポートは戸籍抄本の提出が必要だから最早何のために必要とするのかわからない。どうしたものかと悩んでも、どうにもならない。
 海運業に関して基礎知識を得る傍ら、ネットカフェに通って無戸籍の場合の対処を調べた。現実的な方法は、法務局に相談すること。ただ、異世界から来てしまったからなどとはとても言えないから、親が届け出をしていなくて戸籍登録がなく、家庭環境が悪くて小さい頃のことはよく覚えていないと言い切って身元を特定できそうな情報を持っていそうな人物が存在する可能性を潰していかなければならない。
 なんだか犯罪者の気分だ――嘘で固めて戸籍をつくろうとしているので事実そうなのかもしれない――けれど、背に腹は代えられない。
 クラウセヴィッツ夫妻からの依頼が完了したら、本格的に動こう。そう決めて、自分の経歴を固めながら、商談に向けた準備をした。

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