15
「オットマー・トラウト……」
現れた男の顔を見て、穂純千歳がぽつりと呟いた。
後退りそうになっていたものの、ドレスの裾をきつく握って堪えた様子だった。
トラウトはライフルを背負い、拳銃を構えながらこちらに悠然と歩み寄ってきた。
下卑た笑みを浮かべながら何か問いかけたらしい。穂純千歳は、忌々しそうにトラウトを睨みつけて言葉を吐き捨てた。
続けられる言葉を聞き取れたらしい藤波が、通訳の声を飛ばしてくる。
『"俺の言うことを聞いてくれないか。エドガーの前で助けて、この人の言うことを聞いてと泣いて見せればいい。フランツと違って女を痛めつける趣味はない"。……"嘘。捕まえてぼろぼろにしてからクラウセヴィッツに見せてやると言っていたでしょう"。……"口が滑っていたか"』
深まる笑みに、気丈に振る舞っていた彼女の体が震える。
今度こそ離れそうだと、拳銃を持たない手で彼女の右手を掴んだ。どさくさ紛れに、彼女の手首に触れる。手袋越しに、微かにだが早い脈拍を感じる。瞳孔の開き、呼吸の細さ。咄嗟に俺と白河さんから離れて逃げようとした、愚かな選択。
これ以上は、彼女をトラウトの前に置いていても冷静さを欠かせてしまうだけだ。
「……もういいね。これ以上彼女を怯えさせる必要もない」
「えぇ。彼女をお願いします」
白河さんも同じ考えだったようで、彼女の警護を引き受けてくれた。
一呼吸おいて、一歩踏み出す。
≪はじめまして、ミスター・トラウト。僕たちと取引をしたいそうですね?≫
≪……なんだてめぇ、取引?≫
英語で話しかけると、同じ言語で返ってきた。
トラウトは訝しげな表情を浮かべる。無理もない、この男が接触を図っていたのはジンだ。"バーボン"のことを知るはずがない。
≪おや、何度もジンにコンタクトを取っていたでしょう≫
≪ジンだと!?≫
≪今夜あなたが動くと聞いて、ジンの指示で様子を見にきてみたんですが……だめですね、話になりません≫
衣擦れの音が耳に届く。二人は壁に隠れられたようだ。
今後取引関係を持ちたいジンの仲間に危害を加えることはないだろう。だが、ジンは鬱陶しそうにしていた。派手好きな面がある時点で、取引相手としては邪魔な存在だ。
≪なんだと……?≫
≪僕たちの基本方針は、影も残さず行動すること。これだけ派手に散らかして証拠を残されては、おいそれと取引なんてできませんよ。いずれあなたが捕まって、情報を漏らさないという確実性もない≫
トラウトは嘲笑を浮かべた。俺一人を捻じ伏せて言うことを聞かせるのは容易いとでも考えているのか。
≪優男が言ってくれるじゃねぇか。俺は手荒な真似をして言うこと聞かせたっていいんだぜ!?≫
拳銃を投げ捨て、大柄な体で駆けてくる。よほど体術に自信があるのかと思ったが、隙だらけだ。
≪僕は荒事は好んでいないんですが……≫
拳銃を腰の後ろのホルスターに仕舞い、来る衝撃に備えて手首をほぐす。
突っ込んでくるトラウトの手首と胸元を掴み、相手の勢いを利用して受け身も取れないように床に背中を叩きつけた。
呼吸が上手くできずに潰された蛙のような声を出すトラウト。その声の合間に、口笛の音が聴こえてきた。
≪なん……っ、げほ、おえっ≫
≪荒事は好みませんが、不得手だとは言っていませんよ?≫
咳き込むトラウトの体をひっくり返し、背中に膝を置いて体重をかける。腕を捻り上げて、身動きが取れないように固定した。
視界の端では、白河さんと穂純千歳が壁から顔を覗かせてこちらを見ている。
「……どうして拳銃を捨てたんでしょうか」
「相当拳に自信があったんだろうねぇ。優男一人に銃を持ち出すのは、奴のプライドが許さなかったんじゃないかい?」
「理解できないわ……」
「私も理解できないよ。ま、相手が悪かったな!」
白河さんは笑いながら近づいてきて、トラウトの武装を解除した。
トラウト以外の人間も、配置していた捜査官により捕らえられていた。音声で聞いて状況を把握していた藤波が手配した捜査官が来て、トラウトの身柄も引き受けていく。
周囲で捜査官が動き回る状況を見て、彼女はようやく安全が確保されたのだと実感できたらしい。所在なさげに廊下の隅に立ち尽くしながら、ほっと息を吐いていた。
「穂純さん、車に行きましょう。夫妻ともそこで合流できます」
「……えぇ」
「白河さん、後を頼みます」
「了解」
バンの外で待機していた風見は、俺たちの姿を見るとすぐさまドアを開けた。
夫人は彼女の姿を見るなり、涙ぐんで彼女の体を抱き締めた。
ドイツ語でされる会話はわからないが、声の調子からするに夫人が穂純千歳のことをひどく心配して、こうして無事に戻ってきたことに安堵しているのだろう。
彼女には、これ以上の仕事はさせられない。
招待客に謝罪と事情の説明をするというクラウセヴィッツ氏に同行を申し出ると、快く頷いてくれた。
「何か温かい飲み物を」
「はっ」
近くにいた部下に命じて、騒々しいままの建物の中に戻った。
クラウセヴィッツ氏は危険な目に遭わせてしまったことについて丁寧に謝罪をし、犯人は無事警察によって捕らえられたことを説明した。英語で話された内容を改めて日本語で伝え、招待客の見送りにも付き添った。パーティーの最中での印象は良かったらしく、別れ際の挨拶の中には"輸出を考えてもいい"という言葉もあった。事件は起こったが、事前に対策をしていたため被害は最小限。招待客の中に怪我人がいなかったことも相俟って、悪い方へ転がることはなさそうだった。
≪この後はホテルまで護送いたします。穂純さんは、僕が家までお送りしますので≫
≪あぁ、君になら任せられる。無事に送り届けてほしい≫
≪はい、勿論です≫
バンに戻って中を見ると、穂純千歳は夫人の肩に凭れてうとうとしていた。手にはミルクティーのペットボトルが握られている。甘い物で少しは心も落ち着いて、疲れを実感したのだろう。
部下から彼女が落としていたハンドバッグを受け取って、ぼんやりする彼女の顔を覗き込んだ。
「穂純さん、家まで送ります。歩けますか?」
彼女は目を瞬いて、状況を理解したらしく力なく頷く。
ペットボトルを取り上げて代わりにハンドバッグを持たせ、バンから降ろした。
夫妻と挨拶をかわすのを見守り、風見に指示を出して夫妻のことを任せる。
車を見送っていると、冷たい風が頬を撫でた。彼女の方を見ると、寒さはあまり気にしていない様子ではあるが、露出した肩を縮こまらせていた。
「汗臭かったら申し訳ないですが……とりあえず、これを羽織っていてください。夜風は冷えますから」
「……ありがとう」
ジャケットを脱いで肩にかけてやると、彼女は袷を握って俯いた。
「安室君、アンタの荷物回収してきたけど」
「あぁ、ありがとうございます」
白河さんに渡されたスーツケースを開ける。回収したペットボトルは袋に入れ、車のキーを出して閉じていると、白河さんに話しかけられた。
「穂純さん、私が送ってこようか? 車借りることになるけどさ」
冗談じゃない。ペーパードライバー同然の白河さんに愛車を預けられるわけがない。
作戦行動の後ではあったが、彼女を家に送り届ける体力ぐらいは残っている。
「あなたに愛車を預けるのはとてつもなく不安です。僕が送ります」
「可愛げのない! あんまり追い詰めんなよ? アンタのわがままに付き合ってやったんだから」
「わかってますよ」
打ち合わせの途中で、白河さんには"追い詰められた時の彼女の様子を見たい"と伝えていた。だから、トラウトが目の前に現れてもすぐに彼女の身を隠さなかった。
穂純千歳はといえば、疲れて何も考えられない様子でぼんやりしている。
弱っている彼女を追い詰める気には、どうしてもなれなかった。
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