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「緊張してきましたか?」

 彼女の肩が跳ね、俯けられていた顔が上げられる。
 上の空だったことを取り繕うように笑顔を向けられた。

「してない、って言ったら嘘になるわね」

 夫人も"穂純千歳はこういった荒事に慣れていない"と言っていた。
 インターポールの指名手配リストに載るほどの犯罪者に対して怯えを見せるのも仕方のないことだろう。
 信号が変わったので車を発進させ、前を向く。

「無理もないですよ。大丈夫、あなたのことは我々が守ります。穂純さんは本来の仕事と、他人の会話に耳を傾けることに集中していればいいんです」
「えぇ、……そうね。ありがとう、安室さん」
「いえいえ。何か話した方がいいですか?」

 元より彼女が落ち着いて行動できないような状況にするつもりはない。
 今は探りを入れるのをやめて、リラックスさせることに徹するべきだろう。

「そうしてもらえるとありがたいわ」

 案の定彼女は頷いて、こちらに視線を向けた。
 仕事のついでにとベルモットに色々な店へ引っ張っていかれるので、女性が好きそうな話には事欠かない。とはいえ、ベルモットと違いブランド物を好むわけではないようだから、その話題は避けていいだろう。
 空のほとんどが濃紺に染まり会場に着く頃には、彼女も暗い顔を見せなくなっていた。
 彼女は後部座席に手を伸ばし、靴の入っている袋を取った。事前に確認を取られて答えていたためか、細さと安定感を併せ持つコーンヒールのパンプスを選んだようだ。
 車を降りて運転席のシートを起こし、後部座席からスーツケースを取った。シートは戻してドアを閉め、助手席側に回る。
 ハンドバッグを持った彼女の手を取って車から降ろし、他の荷物は車の中に置いていてもいいと伝えると彼女は素直に従ってくれた。
 手を取ってエスコートをしながら会場となる建物に向かう。記憶している見取り図と一致していることを確認しながら、待ち構えていたらしいクラウセヴィッツ夫妻の前まで歩いた。

≪やぁ、お待ちしていたよ≫
≪チトセ! 今日もきれいね、素敵だわ≫
≪ありがとう。ヘレナ、彼を控室に案内してくれる? 着替えたいんですって≫
≪わかったわ! チトセはエドと打ち合わせをしていてちょうだい≫

 夫人は俺に向き直ると、上品な仕草で建物の奥を示した。

≪こっちよ≫

 先導する夫人について歩きつつ、背後を気にする。しかし俺が近くにいる間は何か話すつもりはないらしく、何も聞くことはできなかった。
 入ってすぐにあるエントランス、大きな扉を隔てて繋がる大広間。広間の奥の両端からは、控室へと続く通路が二本伸びている。広間の裏にはキッチンがあり、スタッフが忙しなく動き回っているはずだ。
 案内された部屋は着替えのための場所らしく、パーテーションで仕切られていた。夫人が備えつけられた椅子に座るのを確認して、パーテーションの裏側で着替え始める。

≪あの子のこと、気になるのかしら?≫

 仕切りの向こう側から投げかけられた茶化すような声調に、やはりこの女性も侮れないなと認識を改める。

≪えぇ、とても≫
≪前にも警察の方には忠告されたのよ。怪しいところがあるから気をつけろ、って≫
≪警察にそうまで言われて、なぜ付き合いを続けているんですか?≫
≪あの子が優しくて真面目だからよ。詐欺に遭った私たち夫婦に付き合って通訳をしてくれた。その後仕事を始めたって聞いてから、エドも何度か機密だと言って嘘の情報を渡したのよ。でも、それは少しも漏洩してはいなかった。信じるに足る理由があったから、エドも私もチトセとはビジネスでもプライベートでも付き合いを続けているの≫

 夫人の方が口が軽かったのか、それともクラウセヴィッツ氏の根回しの結果か。判別はつかないが、これで二人が彼女を信頼する理由はわかった。
 クラウセヴィッツ氏にしたのと同じように、彼女についていくつか訊いてみた。しかし、やはりというべきか夫人も"わからない"と答えることが多かった。
 特に収穫も得られないまま身支度を整え、夫人にチェックされた。

≪うん、素敵よ! 行きましょうか。エドとチトセが待ってるわ≫

 目に見えて機嫌の良くなった夫人の後をついて歩いていると、正面の――おそらくはトイレの――方向から歩いてきた穂純千歳が、何か考え事をしながら角を曲がろうとしていた。
 夫人に声をかけられて顔を上げた彼女は、夫人を見て、その後ろにいる俺を見て、視線の動きを止めた。

≪どうでしょう、彼女の隣に立っても見劣りしない程度にはなりましたか?≫

 彼女を茶化すつもりで夫人に話しかけると、困ったような顔をする穂純千歳に構わずはしゃいだ様子の夫人が答えてくれる。

≪とっても素敵よ! ほらチトセ、横に立ってみて≫
≪ヘレナ、はしゃぎすぎよ≫
≪いいのよ≫

 夫人は穂純千歳を半ば強引に俺の隣に立たせ、頬を緩めた。

≪あぁ素敵ね、エドも昔はこんなにいい男だったのよ≫
≪あら、今もダンディーで素敵じゃない≫
≪そうね、そうよね、チトセならそう言ってくれると思っていたわ! でもエドは私のものよ?≫
≪わかってるわよ、お母様?≫

 仲の良い母娘のようなやりとりだ。
 見ていて微笑ましく思うが、気は緩められない。

≪素敵なご婦人ですね≫
≪そうね。……あなたにも驚いたわ、つい見惚れちゃった≫
≪お世辞なんか言っても何も出ませんよ?≫
≪お世辞じゃないわよ≫

 くすくすと笑って繰り返しになるやりとりを楽しむ程度には、彼女もリラックスできているらしい。
 はしゃいだ様子で広間に戻る夫人を追うために、苦笑する彼女に手を差し出した。

≪どうぞ≫
≪……ありがとう≫

 気恥ずかしそうな様子で視線を逸らされ、先ほどの言葉は世辞ではなかったのだと気づく。ついでに言えば、今の距離感にも戸惑いを覚えている様子だ。
 あぁ、嘘をつく必要のないところでは素直なんだな。
 存外可愛らしいところもあるのだなと喉の奥で笑うと、彼女は拗ねたような表情でぷいと外を向いてしまった。
 敵意はないのに、頑なに経歴を隠そうとする理由がわからない。無戸籍者であったことだって、彼女が悪い訳ではないはずなのに。
 関われば関わるほど、彼女が悪人ではないとわかる。それなら、彼女のこともきちんと守って、調べ上げて、悪人でない確かな証拠を掴まなければ。
 絆されてはいけないとわかっていても、時折思い詰めた表情をする理由を知りたくなってしまっていた。

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