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 情報交換を終え、部屋を出ていくクラウセヴィッツ氏についていく。
 いい匂いは微かに漂っていたから、彼もそれを感じ取って部屋を出たのだろう。

≪ヘレナ、チトセ、昼食はできたかい?≫
≪あら、エドったら≫
≪美味しそうなにおいがしたものだから。ミスター・フルヤ、君もどうかね?≫

 名前を呼ばれると、穂純千歳が目を丸くしたのが視界の端に写った。
 さて、どう答えたものか。調理過程の見えなかった食べ物を口にすることは控えたいが、遠慮をすれば信用されていないと思われてしまう。
 余らせた招待状をこちらに渡し、当日の打ち合わせも綿密にした時点で今更アメリカの捜査機関を入れることもないだろうと判断して、頷くことにした。

≪……いただきます≫

 彼女は気を遣ってくれたのか、食器を"しばらく使っていない"という理由で丁寧に水洗いし、乾いた布巾で拭っていた。
 取り分けた皿は選べるように、彼女の手元が見えるように。気遣いの感じられる頼み事をされ、嫌な気はしなかった。

「無理して食べなくてもいいわよ」

 日本語で言われ、首を横に振る。

「いえ、あなたの気遣いも無駄になってしまう」
「気にしなくていいのに。……味は保証するわ」
「それは楽しみだ」

 ドイツの家庭料理だというスープと、炒め物にしか手はつけられなかったが、彼女は気を悪くした様子もなく対応してくれていた。
 可能な限り協力はする。だが自分のことは探らないでほしい。
 初めから感じている彼女の印象は、変わらない。


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 庁舎に戻ると、藤波がチョコレートを齧りながらこちらを向いた。

「お帰りなさい。どうでした?」
「クラウセヴィッツ氏も四ヶ月以上前の彼女のことは調べられなかったらしい。徹底した秘匿ぶりだ」
「なるほど、やっぱり四ヶ月前ですか。今、その時期の防犯カメラを確認しているところです。明確な日にちがわからないので虱潰しですけど」

 確かに藤波の目の前にあるモニターには約四ヶ月前の街中を映した映像が表示されていた。

「日時か場所、どちらかが絞り込めれば良さそうだな」
「頼みます。降谷さんの手腕にかかってますよ」
「あぁ」

 彼女に対して、どうにも悪い印象を持てない。情に流されやすいつもりはないが、攻撃的になるのは躊躇われる。
 招待状を白河さんに渡し、打ち合わせの内容を共有してから、藤波の作業を手伝った。


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 パーティー当日の朝、穂純千歳に連絡を取ると準備のために昼過ぎには自宅を出ると言われた。
 どうせ移動手段はタクシーだろうと踏んで、バカにならない交通費を浮かせるために乗るだろうと車を出すことを提案すると、少し渋られたが了承してくれた。
 最終の打ち合わせを行い、昼食を取ってから一度自宅に戻り、スーツケースを車に積み込んだ。
 十四時ちょうどに彼女が住むマンションの地下駐車場に車を停めると、彼女もちょうどエントランスから降りてきたところだった。
 車から降り、笑んで見せると彼女の表情も少し和らいだ。

「こんにちは」
「どうも。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。車、出してもらって助かるわ」

 猫のように目を細めて車を眺められる。FDが珍しいのだろうか。
 助手席のドアを開けて彼女を乗せ、荷物は後ろに置いていいと伝える。サブバッグや靴は膝の上に載せ続けるには重いのだろう。彼女は素直に従って、スーツケースの隣に荷物を置いた。
 地下駐車場から車を出し、"とりあえず右に"と言われ従う。

「この後はどんな段取りで?」
「レンタルのドレスを受け取って、美容室で着替えとメイクを済ませるわ。それから会場へ向かえば、五時前には着くはずよ」
「わかりました。僕は会場の控室で着替えさせてもらいますね」
「えぇ」

 彼女は後部座席にちらりと視線を遣り、それからカーナビに目的地を設定してくれた。
 タイトスカートから伸びる脚を組み、アームレストに頬杖をついて窓の外を眺める姿を横目で見て、話をするのなら今だろうと口を開く。

「穂純さんは、どうやってたくさんの言語をマスターしたんです?」

 こちらに"鬱陶しい"と言いたげな視線が向けられた。
 しかし、それも一瞬。すぐに普段見せている笑みを浮かべられる。

「実は小さいときからわたしの周りには外国人の幽霊がいたのよ」
「へぇ。名前は? 何歳だとか、どんな人だったとか、覚えていますか?」
「そうね、まずはアメリカ人のジョン・ドゥ。歳は知らないけど、軍人みたいだったわね」
「よくわかりました。もう結構です」

 中国人なら"張三李四"、イタリア人なら"マリオ・ロッシ"。日本語で"名無しの権兵衛"にあたる名前を並べ立てられることは明白だった。
 元よりまともな答えなど期待していない。その中に偽りない言葉が混じっていれば僥倖、その程度だ。

「育ったのはどんな場所でした?」
「さぁ、記憶にないわね」
「教育は誰から受けたんです?」
「それも覚えていないわ」
「これまでアルバイトをした店の名前なんかは?」
「転々とし過ぎて忘れちゃったわよ」

 "忘れた"。都合のいい言葉だ。
 彼女は痕跡を拾うために使える情報は、すべて"忘れた"と答えた。
 明確な嘘などつかないし、かといって裏付けも取らせる気がない。

「随分荒んだ生活を送ってきたようですね。記憶があやふやになるほどに」
「そうかもしれないわね」
「その割には、平気そうに見えますよ」
「忘れちゃったもの。都合の悪いことは、全部」

 これ以上何を聞いても、"忘れた"と答えられるだけだ。
 なら、少し質問を変えてみるか。

「そういえば、米花町にはどうやって来たんですか?」

 藤波が漁っている、約四ヶ月前の米花町内の防犯カメラの映像。どこからどうやって来たのかさえ分かれば、調べる対象は大幅に絞り込める。
 穂純千歳は少し考え、ごく最近のことについて"忘れた"と答えるのも不自然だと思ったのか、"電車"ときっぱりと答えた。これまではぐらかすような回答ばかりしていたというのに、声の落ち着きからは嘘ではないことが窺えた。

「おや、乗るのを見たことがありませんが。タクシーやレンタカーより遥かに安上がりですよ」
「嫌いなの。どこに行くかわからないから」
「乗換案内のアプリは知ってます?」
「あぁ、あれ便利よね」
「辻褄が合っていませんよ」
「適当に答えてるもの」

 窓の外を見る視線には、確かに嫌悪感が浮かんでいる。"どこに行くかわからない"という言葉も、乗換案内のアプリが便利だという反応も、どちらにも嘘は含んでいなさそうだ。
 支離滅裂な答え。それを指摘すれば、やけに真実味を帯びた返事をしていたくせに、最後にはおどけられる。

「じゃあそうね、電車は嫌いなの。よく痴漢に遭うから」

 にっこりと笑んで言われ、自分の眉が寄るのがわかった。

「ご尤もな答えですね」

 嫌味を込めて答えると、彼女は吐息だけで笑って頬杖をついたまま首を傾げた。

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