09

≪知っているとも。チトセが"話を聞こう"と言ったんだ、無能だなんて思わないさ≫

 穂純千歳の方を見遣ると、彼女は紅茶にポーションミルクを入れてティースプーンで掻き混ぜ、ミルクティーを完成させていた。呑気なものだ。

≪随分と彼女を信頼していますね≫
≪お互いに恩人なんだ。彼女の警戒心の強さを知っているだろう? それに引っかからなかったのなら、こちらにも協力する価値がある。私が彼女にお願いしたんだよ、"信頼できる人間を引っ張り出せ"とね。腹を見せてまで彼女の信頼を得ようとした、君たちの勝ちだ≫

 風見に張り込みを任せたことは失敗だった、だが彼女の信用を得るための選択としては正解だった。そういうことだろう。
 脇で夫人と穂純千歳がクッキーについて話をしているのを尻目に、クラウセヴィッツ氏と言葉をかわす。こちらを信用していないわけではない。出し抜こうとしているというわけでもなさそうだ。微かに燻っていた疑いが解消されると、彼もこちらの安堵を汲み取ったのか表情を柔らかくしてくれた。
 夫人が穂純千歳に何か耳打ちし、穂純千歳は苦笑いを浮かべる。二人の緊張もこちらにつられるようにして解けたようで、部屋の空気は穏やかなものになった。

≪さて、当日の話をしようか。これは先ほど宇都宮君から回収してきた招待状だ。名前は書いていないから、好きな人間に持たせるといい≫

 クラウセヴィッツ氏は背広の内ポケットから招待状を取り出し、こちらに渡してきた。質の良い封筒の中身を確認して、鞄に仕舞う。

≪ありがとうございます。二人、男女を潜らせます。現場で対応するのは僕とその二人。二人には、遠くからドイツ語がわかる人間がフォローに入ります≫
≪ドイツ語が堪能だというその本人は現場には来ないのかね≫
≪生憎と内勤の、潜入には向かないタイプでして。会場を調べたところ、狙撃の可能性も視野に入れるべきと判断したのでスナイパーが潜ります。スナイパーの思考はスナイパーが読む。そして、万が一の近接戦闘のサポートに、女性捜査官が入ります≫
≪なるほど。いいだろう≫

 口髭を撫でながら頷かれ、ここに来る前の打ち合わせは無駄にはならなそうだと安堵した。

≪僕へのドイツ語のフォローは、穂純さん、あなたにお願いします≫
≪承知したわ≫

 にこりと笑んで頷くのを確認して、当日の打ち合わせに移った。
 クラウセヴィッツ夫妻には普段通り振る舞ってもらう。通訳として付き添う、穂純千歳にも。ただ、何か気になることがあったら、クラウセヴィッツ氏か俺か、近くにいる方に伝えてもらうだけでいい。
 話をしているうちに、穂純千歳の表情は少しずつ暗いものに変わっていった。広げた見取り図に視線を落とし、何か考え事をしている様子だ。
 それに気づいた夫人が、彼女を気遣うように声をかけた。

≪え? あぁ……ごめんなさい。えぇ、少し考え事をしてしまうぐらいには≫

 困ったように微笑む彼女からは、言葉通りの緊張を感じる。

≪あらあらごめんなさい。あなたは頼りがいがあるから、こういうことには慣れていないんだってこと、つい忘れてしまうわ≫
≪本当ですね。緊張しなくても大丈夫ですよ≫
≪……大丈夫よ、警察官が近くにいるんだもの≫

 言葉に偽りはない。警察官を信頼してくれているのは事実だろうが、どこか引っかかる。
 穂純千歳とクラウセヴィッツ氏がアイコンタクトをかわし、クラウセヴィッツ氏が頷いた。
 そして、クラウセヴィッツ氏の視線がこちらに向けられる。

≪今から事情に精通して対応してくれる通訳者を探すのには骨が折れる。それに私はチトセをとても気に入っていてね≫

 釘を刺された。――彼女を見捨てるような真似をするな、と。

≪えぇ、それは理解しています≫

 彼の言葉には、はっきりと頷くことができた。
 罪を犯した証拠がない以上、無罪の推定という原則に当て嵌めれば彼女は警察の庇護の対象だ。

≪何より彼女は日本国民。犯罪を防ぐためにあなた方を守るのは当然ですが、国民を――彼女を守るのもまた当然のことです≫

 これだけは揺らがない。不審な点があるからと言って、決定的な証拠もないのに切り捨てることはできない。
 クラウセヴィッツ氏の目をまっすぐに見て答えると、彼は口元を緩めて笑んだ。

≪結構。ヘレナ、チトセと買い物に行っておいで。彼ともう少し打ち合わせをしたい≫
≪わかったわ。チトセ、タクシーを手配してくれる? こちらでお金は出すから。一緒にお昼をつくりましょう。嬉しいわ、子どもがいないから、娘やお嫁さんみたいな女の子と一緒に料理をつくるのが夢だったの≫
≪え? えぇ……わかったわ≫

 クラウセヴィッツ氏の言葉に頷き、少しばかりはしゃいだ様子で誘う夫人。穂純千歳はその切り替えについていけずに戸惑った様子で頷き、電話をし始めた。近くのコンビニを待ち合わせ場所に指定して、寝室で出かける準備をしてから夫人と連れ立って部屋を出ていくのを見送る。
 書斎から出ると自動的にドアに鍵がかかる。クラウセヴィッツ氏が何らかの理由で席を外してくれることを期待しようかとも考えたが、その気はない様子だった。
 上品な所作でコーヒーを飲み、一息つく彼を見遣る。

≪さて、君のことは何とお呼びすればいいかね。チトセについて、何か聞きたいことがあるんだろう?≫

 つい今まで見せることのなかった、射抜くような視線。
 穂純千歳は彼にとって、機密情報を取り扱わせるほど信頼のできるビジネスパートナーであり、同時に大切な存在でもあるらしい。
 トラウトに関する件については任せてくれる気でいるが、彼女に関しては手の内を見せて話すことを要求してきている。

≪……降谷零と申します。申し訳ありませんが、そう呼ぶのはこの家でのみにしていただきたい≫
≪なるほど、スパイか。それで、あの子について何を知りたい?≫
≪貴方がどの程度彼女のことを知っているのか。貴方が半生をかけて育て上げた会社の機密情報を扱わせるには、少々不審な要素が多すぎると思いますが≫

 クラウセヴィッツ氏はソファに体を沈め、口髭を撫でた。

≪私があの子について言えるのは、"何もわからない"ということだ。表と裏、どちらにも彼女の痕跡は存在しない。私と出会う夜以前の物は。尤も、私に使える情報網だけを辿っているから、絶対とは言い切れんがね≫
≪……そんな彼女と、なぜ取引を続けているんですか≫
≪根がお人好しなんだ。好意的な態度を取れば取っただけ、それを返してくれる。こちらが悪意を持たない限り、あの子が信頼を裏切ることはない。妻も彼女を随分と気に入っていてね、身寄りがないなら娘にしてしまおうかとも話し合っているほどだ。あの子に日本から離れる気はなさそうだがね≫

 誰が調べても、彼女について四ヶ月以上前のことはわからない。
 彼女の四ヶ月前の行動を、徹底的に洗い出してみるべきだろうか。
 いくつか質問してみたが、クラウセヴィッツ氏に何か隠している様子はなく、"答えられない"という回答がほとんどだった。
 "穂純千歳と取り決めをしているから"でもない。――"知らないから"、答えられない。
 どうやら彼女は、不用意に自身の情報を振り撒かない程度には警戒心が強いらしい。そしてこれは、クラウセヴィッツ氏に要らぬ火の粉が降りかからないようにという気遣いをしたことによるものであるとも考えられる。現に、彼は嘘偽りなく"知らない"と答えることができている。
 これ以上の情報は得られないだろうと、トラウトについて情報を提供してもらっているうちに、出かけて二人が帰ってきて食事の準備をしていた。

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