06

 ――彼女の方から名乗るから、口を開かないで欲しいと言われています。

 風見の言葉を思い起こし、唇を引き結ぶ。本来なら会話のペースを奪うところだが、そう指定されているのなら従う外ない。
 彼女は俺の背後のドアの、おそらくは鍵を確認して、それからもう一度俺を見て、艶めいた唇で弧を描いた。

「はじめまして、穂純千歳です。暗号がちゃんと解けたようで何より」

 凛とした笑みを浮かべているが、その瞳は微かに揺らぎ、こちらの動向をじっと探っている。
 笑みは虚勢。――いや、癖か。
 ローテーブルにトレイを置き、彼女がスツールに腰を下ろしたままであることを横目で確認しながら、狭い部屋の中を確認した。それらしい小型の機械はない。彼女以外に、身元は割れない。
 テーブルの横に立ち、背筋を伸ばした。

「はじめまして。警察庁警備局警備企画課の降谷零といいます」

 外では滅多に携行することのない警察手帳をスーツの内ポケットから出し、提示する。
 彼女はゆっくりとスツールから立ち上がった。

「見せていただいても?」

 反応を窺うようにじっと視線を向けつつ、右手を差し出してくる。
 携行用の紐を握りつつ素直に手帳を渡すと、彼女はそれにさっと目を通し、こちらの所属と名前を確認した。――尤も、彼女がこれを見た結果を問い合わせたところで、形式上だけ退職したことになっている俺について回答を得ることはできない。これについては、釘を刺しておくべきか。
 穂純千歳は手帳を俺に返すと、ほんの一瞬だけ目を伏せた。そして自分の両肘を手で支え、挑発的に口の片端を上げた。

「笑えない冗談ね。まさか本当に来るだなんて思わなかった。あなたが本当に警察官なのだということは信じるわ。暗号をつくって警察庁に持ち込んだのはわたし自身だもの。……でも、わたしの経歴がおかしいことだらけだってことぐらい、自分でわかっているつもりよ。それについてはどう考えているのかしら」

 気づきませんでした、とは言えない。
 言ったが最後、その程度の組織に大切なクライアントのことを任せることなどできないとFBIを国内に招き入れる方向で動かれるのは火を見るより明らかだ。

「確かに、貴方はパスポートがないため正式な出国もできず、海運会社を営むクラウセヴィッツ氏との交流が始まったのも四ヶ月ほど前。既に七ヶ国語の翻訳・通訳を請け負っている――つまり、仕事とできるほどのレベルで身につけているというのはおかしい。特に、通訳ができるほど精通しているということが。……これに関しては、あなたの法務局への相談記録も疑うべきと見ています」

 彼女はパスポートを作っていない。となればクラウセヴィッツ氏の手引きで正式な手続きを踏まずに日本を出入りしているかとも考えたが、クラウセヴィッツ氏との付き合いが始まったのも四ヶ月ほど前のことだ。仮に海外で言語に触れて覚えてきたとしても、七ヶ国語も習得するなど到底無理な話だろう。
 経歴を誤魔化しているという疑いは持っている。"その程度"のことには気がついている。
 ――それでも、協力は求めたい。

「ですが、我々には時間がありません。トラウトを、なんとしても四日後に捕まえたい。多くの人の命にかかわります」

 目を見て正直に伝えると、彼女は三秒ほど考えて、すっと笑みを消した。

「……いいでしょう。あなた方警察に全面的に協力します。あなたの身分、わたしへの疑い。それらをごまかすようなら、適当に理由をつけて帰るところでした」

 内心でひとつ息を吐いた。第一段階はクリアだ。
 彼女はカウンターに置いていたスマホを手に取って、ソファに腰を落ち着けた。

「クラウセヴィッツに電話をします。英語でなら聞き取れるかしら?」
「えぇ、お願いします」

 数コールの後、クラウセヴィッツ氏の声がはっきり聞こえてきた。どうやらスピーカーフォンの状態にしてくれているらしい。

≪エド、ついさっき警察の人と接触したわ。信用は、してもいいと思う。わたしのことは疑っているけれど、トラウトの方が危険な存在だから逮捕することを優先したいんですって≫
≪なるほど。いい加減トラウトに付き纏われるのにもうんざりしていたところだ。日本の警察が信用できるのならそちらを頼るとしようか≫

 僅かではあるが低くなった声に、穂純千歳は苦笑いを浮かべて肩を竦めた。
 ひとつ、頼みたいことはあるが。頼めるかを考えて彼女の顔を見ていたら、膝の上に置いていた手で発言を促された。

「もう一組潜り込めるようにしてほしいんですが」

 彼女は少し考える素振りを見せ、何かを思い出したのか電話越しにクラウセヴィッツ氏に話しかけた。

≪エド、宇都宮さんも誘っていたわよね≫
『うん? あぁ、誘ったよ』
≪トラウトがくることを伝えて、参加を控えてもらった方がいいんじゃないかしら。彼、奥さんを危険な目に遭わされているし。警察でもう一組潜らせたいらしいから、無駄にはならないわ≫
『そうだな、宇都宮君にはすぐ連絡しよう。少し非常識な時間かもしれんが、まぁ慌ててみればいいだろう』
≪そうね。明日の十時から……警察庁とか警視庁は、トラウトの尾行があるとまずいし。わたしの家で打ち合わせしましょうか≫

 こちらに是非を確認するように視線を向けられる。
 彼女の事務所でもある自宅ならば、クラウセヴィッツ氏が行っても、別の部屋の住人の客を装って俺が行っても、何ら不自然ではない。頷きを返すと、二人は招待状の回収と打ち合わせの段取りを手早く決めた。
 通話を終え、彼女はテーブルにスマホを伏せて置き、細い溜め息をついた。それから俺が運んできたカルーア・ベリーのグラスに手を伸ばし、一口飲む。氷が溶けて薄まっていたのか、眉を顰めた。飲むことは止めたのか結露した水滴のついたグラスをコースターの上に置き、ちらりとバーボンのボトルを見遣る。
 興味を持ったのかと思ったが、彼女はすぐに自分のグラスを手に取ってカウンターに視線を向けつつ立ち上がった。何か別の物を作りたいらしい。
 彼女を制止して、グラスを優しく取り上げた。座らせてペーパーナプキンを手渡し、グラスを一度置いてジャケットを脱ぐ。ついでに自分のグラスも洗ってしまおうと思い立ち、ワイシャツの袖も捲った。
 カウンターの内側に二つのグラスを持って行き、シンクにカルーア・ベリーを流して持ち込んだ二つのグラスをすすいだ。備えつけの布巾で水滴を拭い、作業スペースにグラスを置く。

「何がいいですか?」

 問いかけると、穂純千歳は冷蔵庫に視線を遣り、少し悩む様子を見せた。

「マリブミルクで」
「はい」

 冷蔵庫の中身を確認すると、確かにマリブと牛乳があった。ティフィンのボトルもあることから、この辺りと悩んだのだろうと容易に想像がつく。
 二つの材料を出して作業スペースに置くと、彼女は興味本位か、はたまた監視のためか、ソファから立ち上がってカウンターに近づいてきた。頬杖をついて手元を眺められ、その視線に警戒の色がないことを確認してカクテルを作り始める。
 あまり強い酒は飲まないようだが、それも一人で飲み歩いているが故の自衛の手段のひとつだろう。頻繁に飲むのなら自宅で作ればいいとも思うが、一昨日のバーテンダーとの会話から、弱めにしか作らないミルク系のカクテルに使うリキュールの瓶を空けるのは大変で、いろいろな種類を飲みたいことも相俟って家で飲む気にはならないのだという考えに至った。
 さて、協力を得られるように約束を取りつけることはできた。しかし、警察という後ろめたいことがあれば避けたがるであろう相手に、疑われているとわかった上で協力する理由はわからない。誤魔化しが決して明るみに出ないという確信があるのか、それとも白河さんの言葉通り"警察をおちょくって遊ぶ"ことに愉しみを見出しているのか。この部屋での彼女の態度で、後者の可能性はすぐに打ち消された。
 こちらも、全面的に信用しているという態度は見せない方がいいだろう。彼女は、警察が"きちんとした組織"であることを望んでいる。

「疑われているのに協力してくださるんですね」

 それでも腹の探り合いはしたくないのか、質問に対してぴくりと眉が跳ねた。

「経歴がどうあれ一応善良な市民ですので」

 テンポの良い返事がされる。彼女は疑われる可能性を認識して、周到に答えを用意している。
 少しばかり手強いかもしれないなと思いながら、カクテルを完成させた。

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