04
本人が自覚していないところで、根付いた恐怖心は千歳の精神を蝕んでいた。爪を剥がされる痛みと恐怖がフラッシュバックするのか、数日にわたって目覚めるたびに泣き、精神的に弱り切っていた様子だった。
医師にそのことを相談すると、密かに向精神薬を投与してくれた。弱っているのは痛みのせいだったと錯覚してくれればいい。泣いて泣いて、すべて吐き出しきって、後々日常の中で思い出して引き摺らなければいい。
千歳の精神が安定し出した頃、爪を剥がされた指も乾いて家で日々の包帯の交換ができる程度まで傷が回復した。
セキュリティ面で言えば、生体認証をクリアしなければ入れない千歳の自宅の方が安全だ。白河さんも俺の手が空かないときの千歳の警護を引き受けてくれて、安心感は増した。
最後に投与された薬の副作用である眠気が取れないのかぼんやりする千歳を車で連れ帰り、マンションに着いた。爪が生える場所の保護のためにガーゼで押さえてテープを巻かれているせいで、千歳の指紋は認証できない。合鍵代わりに登録しておいてもらえて良かったと思いながら、千歳を抱えたままエントランスを開けた。
部屋に着いて寝室に寝かせ、うとうとしている千歳に眠っていいと伝えて寝かしつけた。
スプーンも持てるか怪しい千歳が食べられるよう、好き好んでいるらしい雑炊を作った。
食べられる程度に冷ましてから千歳を起こすと、眠ったおかげで眠気も飛んだのかすっきりと目覚めてくれた。
「おはよう……零さん」
「あぁ、おはよう。雑炊を作ったんだが、食べられそうか?」
「ん……お腹空いた」
「じゃあ準備してくるから、待っててくれ」
寝起きで頭はきちんと回転していないらしい。少しぼんやりしていた。
プラスチックのトレーに土鍋と茶碗、れんげを載せ、寝室に持って行った。茶碗に盛りつけてれんげと一緒に手渡してやると、千歳はそれを両手で持つ。
れんげを手に取って、もどかしそうに眉を寄せて、取り落とした。
「大丈夫か、痛むのか?」
千歳は首を横に振り、溜め息をついた。
「爪、ないせいかな……力がうまく入らなくて。ちゃんと支えられない」
触ると痛がるだろうから絶対に触れないが、おそらく本来爪で支えられている部分は、押されたら押されただけ曲がってしまうのだろう。
完全に剥がれた爪がまた生え揃うのには、およそ三ヶ月かかる。そこまで経たなくともある程度指は支えられるようになるだろうが、不便なことに変わりはないだろう。
「……じゃあ、当分は食べさせてやろうか」
「え」
千歳はおそらく、おにぎりだとかサンドイッチだとか、片手で、それも利き手じゃなくても食べられるものをご所望だったのだろうが。普段気丈に振る舞って生きている千歳を甘やかすことができるまたとない機会だ。
千歳の手から茶碗を取り上げ、れんげに雑炊を掬って口元に持って行った。
「ほら」
少しの間躊躇った後、俺がやめることはないとわかって千歳はおずおずと口を開いた。
出汁を取って作った雑炊は千歳のお気に召したようで、ぱぁっと目が輝く。
こうなればこちらのものだ。千歳が満腹だと伝えてくるまで、おいしそうに食べる姿を存分に眺めさせてもらった。
普段何気なく動作に使っている部分だからこそ、突然使えなくなると不自由さが増す。
千歳はパソコンのキーボードを触って仕事の調整をするのにも苦心していた。こればかりは手伝ってやることもできないので、一段落するまでゆっくり待った。
それから、遠慮する千歳を言い包めて風呂にも入れた。打撲の痕が残る四肢や腹を見られるのは嫌だったのだろうが、元はといえばこちらの気の緩みが招いた怪我だ。千歳は言わないし、俺からも言わないが、それだけは確かだった。俺の一方的な罪滅ぼしを理解したのか、千歳は大人しく包帯を外すところから世話をさせてくれた。
夥しい数の赤黒い内出血。押すと痛む程度にまで回復しているし、温める段階に入っているとは聞いたが、見た目の痛々しさは怪我をした直後より酷いものになっていた。千歳は自力で浴室に向かおうとしたが、痛みでよたよたと歩く羽目になって結局俺が手を貸すことになった。
爪には雑菌が入らないように、ガーゼとテープで保護された上から、さらにラップフィルムを巻いて防水テープで保護した。どこを洗うのにも指は当たってしまう。顔だけは最新の注意を払って洗ってもらったが、それ以外はやらせてもらった。
髪と体を綺麗にして湯船に浸けてやると、千歳はようやく落ち着けたのか、ふー、と息を吐いた。
「ものすごく介助されてる……」
「これでも耐えてるんだがな」
「えぇ、そうなの」
「そうだよ。やらしい手つきにならないように気をつけてるんだ」
内出血が酷かろうが、俺にとって千歳の体は魅力的だ。くすくすと笑う千歳は楽しそうで、少し安心した。
しばらく寝たきりだった千歳には、ちょっとした活動も応えるらしい。俺が全身を洗い終わる頃には舟を漕いでいた。
どうにか起こして風呂から出し、体を拭いて下着を着せ、スキンケアをさせた。髪の水気も粗方飛ばしてから、顔を逸らす千歳に苦笑しつつ爪の保護をし直した。
それからリビングに戻って千歳をソファに座らせて、処方された温湿布をべたべたと貼りつけた。足元に跪き包帯を巻いていると、千歳がぽつりとこぼした。
「零さん、あの、ありがとう」
「何がだ?」
「何日も……夜泣きみたいなのに付き合ってくれて」
「あぁ、そんなことか。どういたしまして。だが礼を言われるようなことじゃないさ」
きょとんとして首を傾げる姿が、小動物を思わせる。
廃れたオフィスでぼろぼろになって縮こまる千歳を見て、寿命が縮むような思いだった。天寿を全うできるかどうかは怪しい状況だが、それだけ肝が冷えたのだ。
子供のように泣きじゃくる姿に、心を壊したのかと不安にもなった。だから、そんな風に泣く理由を、トラウマを、少しでも昇華させられれば良かった。
「それで千歳がまた元気になるなら、――心を守れるならそれで良かったんだ」
千歳は嬉しそうに頬を緩めて、もう一度"ありがとう"と言った。
せめて千歳が不自由なく生活できるようになるまでは、世話を焼いていたい。
"怪我の功名だ"とぼやきながらぷらぷらと脚を揺らす千歳に"大人しくしような"と宥める俺の頬は、おそらく緩んでいた。
千歳が何があってもそばにいることをやめようとしないという事実に、ただ、安堵していた。
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リクエスト内容:切甘
夢主が大怪我を負い、降谷さんが過保護になる
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