21

「……穂純さん、僕から離れないでください。敵の狙いはあなたです」


 招待客を出迎え始める直前まで考えていたことが、現実になった?
 背中のそばを通った風が、弾丸だったとしたら。安室さんが体を引っ張ってくれなければ、わたしに当たっていた。
 ワインボトルに当たったのは跳弾で、だとすれば割れた二階の高さの窓から入ってきた弾は、ヘレナの手前に落ちていて。
 自分が狙いだと理解するのに、状況はわかりやすすぎていた。
 さぁっと血の気が下る感覚がする。足元が突然頼りないものになったかのような、漠然とした不安感に襲われる。
 ――あぁ、だめだ、パニックになってはいけない。
 狼狽えるな、彼の言うことを聞けばいい。身勝手なことさえしなければ、守ってくれるはずなのだから。
 震える手を握って、大きく息を吸う。浅くなっていた呼吸を戻すように深く長く息を吐くと、少しだけ思考が冷静になれた気がした。
 安室さんの顔を見上げると、きれいなブルーの瞳と視線がぶつかった。

「……わたしはどうしたらいい?」

 思いの外、声が震えた。
 笑わなくちゃ、そう思うのに、うまく笑える気がしない。
 招待客の悲鳴や足音、スタッフの大声がどこか遠くに聞こえる。

「クラウセヴィッツ氏とは別行動をとりましょう。裏口から出たところに風見が待機しています、そこまで二人を連れて行けば安全です。僕とは別の捜査官が既に二人を連れて離脱しています」
「囮になればいいのね?」

 彼らの目的は、トラウトを逮捕すること。
 狙いがわたしなら、わたしを餌にトラウトを呼び寄せなければならない。
 安室さんが濁した言葉をあえて口にすると、申し訳なさそうに眉を下げられた。

「あなたには酷かもしれませんが……」

 不思議な話だ、あれほどわたしを疑っていたのに、わたしの命ばかりか心まで慮ってくれるだなんて。
 なんだかおかしくて、強張った体の力が抜けた。

「取り乱してごめんなさい。いいわ、でも体力には期待しないでね」
「……ありがとうございます。とりあえず、あの柱の陰に」

 こちらが気を遣わなくても、安室さんは窓との間に立つように気をつけてくれた。
 先ほどのポイントからの狙撃の危険がない場所に着いて、小さく息をつく。
 クラウセヴィッツ夫妻は無事に風見さんが待つバンに乗り込ませたので安全だとか、そういう会話を安室さんはしていた。
 避難する人波とは反対方向へ、安室さんに促される。

≪――あぁ、予定変更だ、捕まえてぼろぼろにしてからクラウセヴィッツに見せてやる≫

 ふと耳に飛び込んできたのは、確かに宇都宮邸で聴いたトラウトの声だった。
 そちらを見ると、大柄な男が手振りで招待客を逃がしながらも、ドイツ語で悪態を吐いている。

「安室さん、トラウトが近くにいるわ」
「はい」

 狙撃から庇いながら、トラウトにも警戒しなければならない。
 困難と言うほどのものでもないのかもしれないけれど、難しい状況のはずだ。

「仲間と合流したいんですが、移動できますか?」
「えぇ、走るなら靴も脱ぐわ」
「ゆっくりで大丈夫ですよ。こっちです」

 外したからと、狙撃を何度も繰り返すのは危険なんだっけ。
 弾丸の角度や跳弾が当たった位置、そして周囲の建物から居場所を特定されてしまうから。
 それなら、無駄撃ちはしないだろう。
 だから安室さんも、窓との間に立ってゆっくり移動できる。
 太い柱に囲まれた広間を抜けて、控室の並ぶエリアに入ると、人はすっかりいなくなった。反対側のエリアに、招待客を誘導してもらっているからだ。
 それはすなわち、敵が狙いやすい状況になったとも言えるわけで。

≪いたぞ!≫

 通路の先に現れた男が、ドイツ語で叫んだ。
 銃口がこちらを向き、背後からもどたどたとした足音が聴こえてくる。
 安室さんは敵に背を向けてわたしを庇いながら、懐から出した拳銃を足音の方へ向けて構えた。
 と、見覚えのあるブルーグリーンの布が翻って、敵の男の顔にぶつかった。――否、仲間の女性捜査官が、敵の顔面に飛び蹴りを入れていた。
 ヘルメットで頭部へのダメージは少なそうではあるものの、よろめいた敵は拳銃を取り落として確保される。うつ伏せにして男の両手を後ろへ回し、素早く手錠をかけた女性捜査官は、敵を踏みつけながらこちらを見た。

「安室君! 彼女は無事?」
「えぇ、あなたの野蛮なまでの強さにとても驚いているようですがね!」
「バァーカ見惚れてんのよ私の華麗な足技に! ホラ一人確保したよ、アンタはこいつ連れて退避しな! そんでスナイパーの確保!」

 パートナーだった男性捜査官が指示を受けて、今しがた捕らえられた男を引っ立てて去っていく。
 あまりにもスムーズな逮捕劇に、足音のことも忘れて見入ってしまった。
 背後が安全になると、安室さんは足音の方向を睨みつけながら、わたしの腕を掴んで後ろに下がらせる。

「退路は!」
「確保済み! ゆっくり下がっておいで」
「穂純さん、彼女の方へ歩いてください。ゆっくりで大丈夫、転ばないようにだけ気をつけて」

 促されるまま、女性捜査官の元へ歩く。

≪フランツのときといい、今回といい、邪魔が入るのは決まってあの女がいる時だ! エドガーもあの女を娘のように大事に思ってるらしいしな、二度と他人なんざ頼りにできねぇようにしてやろう≫

 荒々しい声が、近づいてくる。
 余裕が感じられるのは、どうしてだろう。

≪――今だ!≫

 すぐそばの部屋のドアが倒れて、人が後を追うようにして飛び出してきた。

「ひっ……!」
≪動くな! 撃つぞ!≫

 喉から出かかった悲鳴を掻き消すような声と共に女性捜査官が銃を向け、男がそれに気を取られた瞬間に、男の腹に安室さんの拳が叩き込まれる。
 ばくばくとうるさく騒ぐ心臓を押さえて、深く息を吐いた。

「カメラをハッキングされているのか。厄介だな」

 安室さんは鬱陶しそうに言って、近くの防犯カメラを銃で撃ち抜いた。
 女性捜査官も、立っている丁字の通路から見える範囲のカメラを破壊している。

「だ、大丈夫なの……?」
「クラウセヴィッツ氏に許可は得ていますよ。今回トラウトを捕まえさえすれば、弁償費用はすべてあちらで持ってくださると」

 よほど腹に据えかねていたらしい。
 今後も絡まれて危険を孕んだまま過ごすより、ここで安全を買う方がいいと踏んだのか。

「しかし、ゾンビゲーかよ! って感じだったな今のは」
「不謹慎ですよ、口を慎んでください」
「安室君は頭かったいなァ。そう思わない? 穂純さん」
「え、えっと……」

 正直同じことを思っていただなんて言えない。
 ようやく合流できて一息吐くと同時に、通路の陰からトラウトが姿を現した。

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