02

『アナタの愛しのキティがドブネズミに連れ去られたわよ』

 ベルモットからの着信に、また足にされるのかとうんざりしながら出てみれば、告げられたのはこの言葉。
 彼女は気まぐれを起こして追跡し、現場で物陰から様子を見ながら連絡を寄越したという。
 犯人は、俺がミスについて調査をしてジンに報告を上げた結果家族を失うことになった男だった。十中八九逆恨みだ。配偶者は消された、しかし本人は処分されていないという噂は聞いていたが、こそこそ逃げ回りながらバーボンへの報復の機会を窺っていたらしい。
 その報復が、バーボンの大切な物を傷つけること。なるほど理に適っている。大切な物を奪われた復讐に、同じことをしようというのだから。

「場所は――」

 尋ねようとした瞬間、電話の向こうで小さな舌打ちの音が聞こえ、直後に一発の銃声が鳴り響いた。

『バーボン、貸しひとつよ』

 ベルモットは男が持っていたペーパーカンパニーの住所を告げると、通話を切ってしまった。
 状況はわからないが、バーボンに恩を売れるこの状況でベルモットが嘘をつくメリットはない。
 車に乗り込んで、風見に病院の手配を頼みながら捕まらないギリギリのスピードでベルモットが口にした住所に向かった。
 到着すると、入り口の前にハーレーが停まっているのが見えた。車を降りてビルの中に入ろうとすると、ベルモットが出てきた。

「バーボン、これがあの子の荷物。わざわざバイクを取りに行って追いかけたのよ。大変だったんだから」
「……ありがとうございます」
「二十分で掃除屋が来るわ。その前にキティを連れてこの場を離れなさい」

 ベルモットは伸びをしながら歩き、ハーレーに跨るとヘルメットを被り走り去っていった。
 千歳の荷物を肩にかけ、ホルスターに手を伸ばしつつビルの中に足を踏み入れる。
 まともに機能していなかっただろう、真新しい事務机が埃をかぶって置かれているだけのオフィス。不自然に寄せられた四つの机の真ん中に、二人分の影が見えた。
 一人はベルモットが射殺したであろう、バーボンの調査対象だった男。もう一人は――。

「千歳……!」

 体を小さく丸めてぐすぐすと泣きじゃくっているのは、間違いなく千歳だった。
 スマホのライトを点けて、千歳を照らす。白いはずの肌に無数に散る殴打や蹴りの跡。赤く染まる指先。
 "血の気が引く"という感覚はこういうものなのだと、漠然と理解した。
 千歳の傍らに膝をついて、顔を覗き込む。頬に触れると痛みに顔が歪められて、千歳の視線がこちらに向く。

「もう大丈夫だ、千歳。すぐに助けられなくてすまない。病院に連れて行くから、安心してくれ」

 ひたすらに口を動かしながら、千歳を抱えてビルを出た。
 シートを倒した助手席に乗せて、急く気持ちを無理矢理抑え込みながらアクセルを踏む。
 赤色灯をつけられる立場ではないことがもどかしい。
 到着した警察病院の救急センターの入り口に滑り込むように横づけして、待っていた風見と病院の人間に無言で千歳を引き渡した。
 駐車場に車を停め直し、後ろに積んでいた千歳の荷物に不審な物がないかチェックしてから、病院の中に入った。
 看護師に案内してもらい、処置室の前に向かう。長椅子の前に座っていた風見が立ち上がって、気遣わし気な視線を向けてきた。

「深夜に悪かったな……」
「事態が事態です。一体、何が……?」
「少し前に、君に保護してもらった女性がいただろう。彼女の夫が、バーボンへの逆恨みでキティを誘拐し、痛めつけて送り返そうとしていた。これが全容だ」
「な……!」

 あの男の配偶者はシロだった。俺が報告を上げることで殺されるのならと、一足先に保護して行方不明というかたちを取った。時機を見てジンに報告し、始末も引き受けた。一般人の女性一人、探り屋が本職である僕にもできる仕事だと判断されたのは僥倖だった。自宅に致死量に及ぶ量の本物の血液をそれらしく残したのは確かだ。それも、本人に数日に分けて提供してもらった物を。ウォッカに確認させた後で、死体は処理したが血の処理は面倒だと言って掃除屋を手配してもらったのだ。これで、世間的に彼女は行方不明、組織に対しては"殺した"と報告が上げられた。

「男の動向には気を配っていたつもりだったが……呑気にアルバイトをしていた数時間前の自分を殴りたい」
「降谷さん……」
「犯人の男はベルモットが射殺した。あの男に関することで疑われても面倒だ、向こうで手配した掃除屋に任せることにした」
「了解。穂純のこと自体を隠蔽した方が良さそうですね」

 手当と検査を終えた千歳は、病室に運ばれた。
 ついて行き、ベッドの上で眠る千歳の傍らで医師の説明を聞いた。
 頭部と頬、四肢と腹部に打撲――おそらくは殴られたり蹴られたりしたためにできたもの――があり、右手の人差し指と中指の爪が剥がされていた。骨折しているような場所はなかったが、しばらくは痛みで動けないだろうということだった。暴行の際についた切り傷もあり、口の端も切れていたため、剥がされた爪以外にも多少の出血もあった。
 ベルモットは見るに見かねて発砲した様子だった。あれで"キティ"のことは可愛がっている。耐性もなく、理不尽に拷問まがいのことをされている様子を見て気分を悪くしてのことだったのかもしれない。
 頭と四肢に巻かれた包帯、頬に貼られたガーゼ。口元に貼られた絆創膏、指先に巻かれたテープ。
 医師が病室を出ていった後も、俺は丸椅子に座って呆然と眠る千歳を見ていた。

「私は廊下で待機します。ご入用の物があれば仰ってください」

 返事をしない俺に対しても、風見は恭しく頭を下げて病室を出ていった。
 無事な左手に触れ、滑らかな肌を撫でる。あぁ、この小花のネイルが男の目についたんだな。楽しくお洒落をしている千歳のことが許せなかったのか。それとも"バーボン"のために可愛くしている部分を、無残に散らしてやりたかったのか。
 傷のせいで熱を持ち始めた左手を、額に当てた。いつもは少しひんやりとして気持ちいい手だったのに。

「"守る"と言ったのにな……」

 きっと千歳も覚悟はしてくれていた。それでも、守りたかった。
 すぐに助けてやれなかった俺を恨んでもいい。恨み言を吐くためでもいいから、時間が経ったら目覚めてくれ。
 発熱の兆候が見られたためナースコールのボタンを押しながら、額につけた左手に祈りを送った。

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