01

※いつも以上に酷い暴力描写有


「"キティ"だな?」

 ごり、と米神に強く押しつけられた硬い物と、一部の人間しか知らないはずのわたしの呼び名。
 組織に関わることなのだと、瞬時に判断がついた。
 抵抗を意思を見せてはならない。バッグを手放して、顔の高さまで両手を上げた。

「……何の用かしら」

 夜の住宅街、周囲に人の気配はなし。物騒な物を持ち出してまでわたしを呼び止めるには、絶好の状況だった。
 意識して呼吸を落ち着けながら、背後に立っている相手の返答を待つ。

「用があるのはバーボンだ。てめぇは餌でしかねぇんだよ。理解したら大人しく寝てろ」

 言葉と同時に、側頭部に硬い物がぶつかった。
 脳を揺らすような振動と、強烈な鈍痛。
 殴られたのだと理解しながら、どうすることもできずに意識が遠のくのだけを感じた。


********************


 目を覚ますと、頭に残る鈍痛がひどく意識を苛んできた。
 痛い。いっそもう一度気絶してしまいたい。
 天井をぼんやりと見ながら状況を整理しようとしたところで、顔に水をかけられた。

「目ェ覚めたか、お嬢ちゃん」

 気絶する前に聞いたのと同じ声だ。
 気怠さを押し殺して声の方向に視線を向けると、下卑た笑みを浮かべる男と目が合った。
 体を動かそうとして、それが難しいことに気がつく。両手足を重たい事務机にロープで繋がれて、床に寝かされている。
 ここはどこだろう。どこかの会社の事務所だった場所?

「安心しろよ、女の体に興味はねぇ。俺には愛する妻がいたんでなぁ。もう死んじまったが」

 よく喋る男だ。何をしたいのだろう。
 疑問に思っていたら、突然右腕を踏みつけられた。みし、と嫌な音がして、一瞬遅れて痛みが襲ってくる。

「あの得体の知れねぇ探り屋が、俺のミスをジンにリークしなけりゃ……!」

 今度はお腹を踏みつけられて、押し出された空気に噎せた。
 つまるところ、逆恨みだ。この男がミスをして、それについてバーボンがジンに報告した。ミスを犯せば、家族ともども社会から消される。それでこの男の妻も殺されてしまったのだろう。
 そういう組織に属しているのだと知っていながら、自分のミスを発端として最愛の人が殺された現実から逃れようとしている。やりきれない思いを、バーボンに向けることで昇華させようとしているのだ。
 瞳孔の開いた目で、歪に口の端を上げて見下ろされる。狂気じみた笑みに、ぞくりと体が震えた。

「だからよぉ、バーボンの大事なモンをぼろぼろにしてやるって決めたんだ。秘密主義のあの野郎が唯一見せた弱点だ、利用しねぇ手はねぇだろ?」

 首を掴まれて、呼吸がしづらくなる。振りかぶられる拳が嫌にゆっくり見えた。左頬に拳を打ちつけられ、ちかちかと視界に星が飛ぶ。口の中に血の味が滲んで、頬はじんじんと熱を持った。

「死なせはしねぇから安心しろよ。バーボンを恨みたくなるほど痛めつけてから、送り返してやるからよぉ……」

 右の太腿を蹴りつけられる。足首に括りつけられたロープが引っ張られて、ぎちりと食い込んだ。
 頭を蹴られて意識が遠退きそうになったのに、今度は脇腹を蹴りつけられて痛みで意識がはっきりした。
 あぁ、どうしよう。どうしたら。拷問じゃなくて良かった。待っていれば零さんの元に帰れる。でも、男が思っているほどわたしが丈夫じゃなかったら?
 殴られたり蹴られたりする衝撃に揺らされながら、痛みで途切れて支離滅裂な思考をどうにか巡らせる。
 心が折れそうだ。でも、"やめてほしい"と泣き叫んだってこの男はやめない。だったら何でもいいから考え事をして、下手なことを口走らないように気をつけることしかできない。
 大丈夫、待っていれば、この男が満足するまで耐えていれば、零さんの元に帰してもらえる。早く終わって。
 止むことのない痛みのせいで、涙が浮かんで視界が滲む。

「……へぇ」

 静かな声とともに、指を覗き込まれた。

「随分可愛らしくしてるじゃねぇか」

 男が目をつけたのは、小花のネイルが施された爪だ。放り出されていたペンチを掴み、右手の人差し指の爪を挟まれる。
 昔から爪を剥がす拷問があることは知っている。その痛みがとてつもないものだということも。何をされるのか、瞬時に理解した。

「ひっ……!」
「ようやく怖がる声が聞けたなぁ。その調子で、バーボンへの恨み言も吐いてくれよ!!」

 恐怖から漏れた声に対して、男の声は愉快そうに弾む。
 震える指を掴まれて、ゆっくりとペンチを起こされた。
 歯の根が合わない。がちがちと鳴る歯の音に、男の顔が笑みで歪む。
 爪と肉が剥がれる生々しい音が耳に流れ込んできて、同時に想像を絶する痛みが指先に走った。
 ぼろぼろと涙が溢れる。喉の奥から呻くような声が漏れてしまう。噛みしめることすらできない。

「次はどの指がいいかねぇ……」
「ぅ……や、だ……」
「そうだな、嫌だなぁ。でも悪いのはバーボンだ。恨むならバーボンを恨めよ」

 バーボンが悪い、バーボンを恨め。暗示のように繰り返される言葉。
 ちがう、彼は悪くない。わたしが彼を恨む理由もない。こういうこともあるとわかったうえで、そばにいることを選択したのはわたしだ。
 ねぇ、でも、泣き言ぐらいは許してね。

「たす、け……て」

 来ないって、わかってる。今日会う予定なんてなかった。わたしがいないことに気づく理由がない。

「そうだ、そうやって呼んでろ! 助けなんて来ねぇんだ、助けに来てくれねぇバーボンを恨め!」

 中指を掴まれて、今度は一気に爪を引き剥がされた。
 痛みに叫ぶことしかできなくて、痛みから逃れようともがいても四肢を縛るロープが食い込むだけ。
 ――たすけて、おねがい、もうだめ。
 ぽっきりと、何かが折れたような気がした。
 嗚咽が漏れる。子どものように泣きじゃくることしかできなくなる。
 部屋の中に、愉快そうな高笑いが響いた。
 薬指の爪をペンチで挟まれて、またあの痛みが来ると思うと頭が真っ白になる。――その瞬間、一発の銃声が鳴り、同時に笑い声が途切れた。
 どさ、と男がそばに倒れる。

「バーボン、貸しひとつよ」

 聞こえてきたのは、ベルモットの声。

「運が良かったわね、キティ? 連れ去られるアナタを私が偶然見つけて、わざわざ追ってきてあげたのよ」

 男が動かなくなった、そうしてくれたのはベルモット。男は死んで、……良くないことなのに安堵してしまう。
 ベルモットは返事をしないわたしに溜め息をつくと、手首と足首にきつく巻きつけられたロープをほどいてくれた。

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