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藤波さんと風見に組み立ててもらった新しいベッドの広さにようやく慣れた頃、零さんから"今夜行く"とメールで連絡がきた。"わかった。自分用の枕持ってきて。うちに置いとくやつ"と返信すると、"よくわからないが枕は持って行く"という返信がきた。
夜になってやってきた零さんは、ざっとチェックをすると持っていた大きな袋をわたしに押しつけ"悪い"と一言謝って脱衣所に入っていった。よほど疲れているらしい。シャワーを浴びて寝る準備を整えてしまいたいのだとすぐにわかった。
とりあえずはと預かった百貨店の袋から新品らしい枕と枕カバーを出して、きちんとつけてベッドに置いてみた。
どうせ寝るだけなのだろうしとごろごろしていると、リビングの電気を消してくれたらしい零さんが寝室に入ってきた。
青い目を瞬かせて、部屋の電気を消すとのそのそとベッドに上がってくる。
チェストの上に置いた橙色のランプをつけた。
「……ベッドが、広くなってるな」
「零さん大丈夫? 疲れてるなら寝ちゃってもいいよ」
零さんは枕に顔を埋めつつ、首を横に振った。
「いや……シャワーを浴びたらだいぶマシになった。……ようやく交際の申請も通ったんだ……、千歳の一連の行動については発端が両角重則だと報告した。あの男を原因として藤波が千歳からの預かり物を破損させ、それを知った俺が千歳を警察庁から遠ざけて、その間に俺の潜入先の組織の人間が俺と親しかった千歳に接触した――そして、千歳はそれを受けて俺の立場が悪くならないよう協力してくれた、とな。あとは身辺を洗い直して再提出するだけで済んだ」
「……お疲れさま」
うん、と眠そうな声で返事をしつつ、零さんはこちらに体を向けた。
ランプをつけるために起き上がっていたのでもう一度寝転がると、投げ出した左手を握られた。
手のひらが触れ合って熱が伝わってくる。わたしより少し高い体温だ。
「……ベッド、なぜ買い直したんだ」
「零さん、寝るときちょっと窮屈そうなんだもの。……あとは、こうやって顔を見ながら寝られるぐらいの広さがあった方がいいなって」
「そうか……、そうだな」
眉を下げて切なげに、でも嬉しそうに微笑まれる。
「……ごめんなさい。わたしが色々してしまったから、後処理が大変だったんでしょう?」
「主にFBIとの利害調整がな……」
零さんはわざとらしく顔を顰めて言った後、苦笑した。
「冗談はさておき、確かに困った点もあったがフォローはありがたかったんだ。付け焼刃の語学力ではどうにもならなかった。その後、両角の逮捕にも繋がったわけだしな」
「そう」
彼の左手に、自分の右手を重ねて両手で握る。
零さんはくすぐったそうに目を細めて、ふ、と口元を緩めた。
「千歳は俺の手が好きだな」
「そうね……」
わたしを銃弾から守ってくれた。優しく触れてくれた。
関係に"恋人"と銘打ってからは、遠慮をしなくなったのに触れる優しさは変わらないことが堪らなくうれしかった。
「理由は単純だったの。温かくて、優しかったから」
「……あぁ」
「もうあんな無茶はしない。できるだけ、零さんのそばで……一緒に生きていたいから」
「そうしてくれ」
きっとこれからも、協力者として犯罪に関わることはあるだろう。運が悪ければ、あの組織にも。
それが怖くないと言えば嘘になる。今のわたしは、"死にたくない"と思っているから。
でも、前向きな理由だ。ただただ身近になった危険に怯えていた数ヶ月前とは違う。
零さんと一緒にいたいから――それだけだ。
「……何もかもを捨てさせてしまったな」
表情は変わらないまま。少なからず、嬉しいと思ってくれているのだろうか。
「謝らないでよ? 選んだのはわたしなんだから」
「"自分の選択の責任は自分で取る"……か。君の口癖だ。それも少し、寂しいな」
「?」
顔を見ると、視線を合わせられた。
逸らすことを許さないまっすぐな視線に気圧される。
「千歳は俺の選択の結果を一緒に負ってくれた。俺も、千歳の選択の結果は一緒に負いたい」
零さんの言葉で、数ヶ月前の記憶が思い起こされた。
ある暗殺計画を詳細に知ってしまってどうすべきか迷うわたしに、"後悔するなら自分も一緒だ"と言ってくれたこと。それが、恋の始まりだった。
「わたしがしたことの結果は自分が負うって、零さんは何度も言ってた」
零さんの方がずっと器用で、力もあって、責任と覚悟を持っていたからだ。
「千歳の友人の件では、千歳が自分で始末をつけた。今回の件は、千歳にはとてもじゃないが結果なんて見せられなかった。そういうことはこれからもあるだろうな。全部一緒には無理でも……教えてくれなくてもいい。ただ、分けられる重荷があるなら分けてほしい――それだけだ」
「零さんからわたしに分けることはあるの?」
「あるさ。疲れたときにここで眠ると落ち着くんだ。それだけでいい」
とろりと目を細められる。
結局、アンバランスなのは変わらないのだ。背負える重さが、違うから。
「……うん。一緒にいられたら幸せだけど、苦しむときも一緒」
零さんは嬉しそうに微笑んで、すぐに堪え切れなかった様子で欠伸をこぼした。
「悪い……流石に九十分睡眠が続くと駄目だな」
「九十分……!? それただの仮眠じゃないの……」
零さんが眠いのなら寝ようかと思い、チェストの上のランプに手を伸ばして明かりを落とす。
カーテンの隙間から射し込む月明かりが、床と布団を細く照らした。
「眠りの質さえ良ければどうにかなる」
「ならないよ……。零さんは明日は休みなの?」
「あぁ」
「じゃあ好きなだけ寝られるね」
「あぁ……。明日は千歳の手料理が食べたい」
「はいはい。零さんほど手の込んだ物は作れないからね」
そばで深く眠ることも、わたしが作った物を口にすることも受け入れてくれている。
そうならなくても仕方のないことだとは理解していたけれど、実際になってみると嬉しいものだった。
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
零さんのとろけた声での就寝の挨拶に頬が緩む。返事をすると、いることを確かめるように手を握られた。
規則正しく聞こえてくる静かな寝息に引っ張られて、瞼が重くなる。
この手を離さなくてもいい。零さんも握っていてくれる。一緒に幸せになって、苦しむことができる。
零さんに一緒にいてもらえれば、愛してもらえれば、わたしは何があっても幸せだ。
温かい手を絡めるように握り返して、とろりとした眠気に身を任せた。
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