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翻訳の仕事が一段落してぽきぽき鳴る体を伸ばしていたら、スマホが着信を知らせた。
発信者は"エド"。――たしかに通訳の仕事の再開を知らせるメールはクライアント全員に送ったけれども。
とりあえず出てみないことにはと、通話ボタンをタップしてスマホを耳に当てた。
≪穂純よ≫
『エドガーだ。チトセ、無事かね』
あぁこれは完全に何をしていたか掴まれているな。
ワークチェアの背凭れに寄りかかって天井を見上げた。
≪無事だし、元気よ。通訳の仕事を再開するって連絡もしたでしょう?≫
『あの集団が捕まったことと、情報収集に当たらせていた部下がチトセに似た女性を見かけたと言っていたことからもしやとは思っていたが……』
≪そうね、逮捕にも関わったわ≫
電話の向こうから深い溜め息が聞こえてきた。
最近人に溜め息をつかれ過ぎじゃないだろうか。
『……まったく、元気でいるならいいが。日本時間で来週の水曜日から土曜日までは空いているかな?』
≪えぇ、空いてるわ。なぁに、旅行?≫
『あぁ、ヘレナが"京都に行きたい"と言い出したんだよ。久しぶりにチトセの顔を見たいとも言っていたな』
≪そういうことなら喜んで。すぐに見積もり作って送るわね≫
『頼むよ』
水曜日に日本着、移動して京都で宿泊。四日目の朝に京都を出て、飛行機で帰る。聞いた日程をメモした。
≪……でも、いいの?≫
『何のことだ?』
≪わたしが何に関わったかわかっていて、会う気なのかってこと≫
『恨みを買うのには私も慣れている。心配することじゃないさ。……チトセ、君は警察に協力していた。間違っているかね』
≪いいえ≫
『それなら信じるに値する。では、連絡を待っているよ』
エドとの通話を終えて、ふぅと息を吐く。
情報を買ってまであの危険な集団に関わったことを知ったうえで、そしておそらくは恨みを買ったこともわかったうえで、取引を続けてくれると言う。――見捨てないでいてくれるのかと、安堵してしまう。
メールソフトを立ち上げて確認すると、他のクライアントから何通か通訳の依頼のメールが入っていた。"復帰してしてくれて助かった"、"何としても商談を成功させたいから引き受けてくれ"、そんな文面も見受けられて頬が緩む。
こちらの世界でやってきた仕事は、確かに喜ばれていたのだとひどく安心した。
日程の調整に頭を捻っていると、インターフォンが鳴った。書斎から出てモニターを確認すると、大きな段ボール箱を持つ作業員の格好をした男性二人が映っていた。口を開かないことを確認して、エントランスのドアを開けた。
客は作業員に変装した藤波さんと風見だ。ドアを開けて迎え入れ、普段スーツ姿で見慣れている二人が作業用の服を着ていることが物珍しく思えて、まじまじと見てしまった。
「……なんだその目は」
「いつもサラリーマンに溶け込んでる二人がその格好してるのは面白いなって」
「面白がるな! お前の頼みで来たんだぞ」
「ふふ、ごめんなさい。……藤波さんは?」
「手伝いだよ。でもこれ、突然どうしたのさ」
たし、と藤波さんの手のひらで叩かれた箱には、"ベッド"と書かれている。
寝室に置いている物を大きくしようと思って、少し前に風見に相談したのだ。風見は"俺が行くから業者は入れるな、どれが欲しいんだ"と親身になって応じてくれて、今日に至る。
「……零さんが泊まるとき、ちょっと狭そうだから」
「そういう理由かよ羨ましいな!!」
あの日からも、藤波さんからはよく仕事の依頼がある。
零さんがわたしを再度協力者にするために奔走してくれて、すぐに管理対象にされたのは記憶に新しい。零さんの預かりということにはなっているけれど、いくつか公務員の汚職について知ってしまっているわたしの監視のためか、入れ替わりで誰かしらと会う。警護も兼ねていると知っているから、嫌だとも思わない。その中でも藤波さんは白河さんに次いで会う頻度が高い人で、仕事をもらったり報告をしたりするついでにお茶をしながらアプリゲームを教えてもらう程度には交流ができていた。
一方で、零さんはFBIや警視庁などの関係各所との利害の調整と情報操作への協力、加えてわたしの身辺に関して資料をつくり直すこともしていたらしく、あまり休めていないようだった。
「……零さん、仕事落ち着くかな」
「"ベルモットの機嫌が良くて公安の仕事に集中できる"と喜んでいたぞ。すぐに落ち着くんじゃないか」
話をする間にも、風見たちは寝室に箱を運び込んで広げ始める。
今あるベッドとサイズの合わなくなる布団はどちらも処分するつもりだし、新しい布団は今日の午後届くことになっている。
二つ下の階に住み始めたときは業者を入れても問題なかったし、この部屋に引っ越してきたときは、荷物の移動だけ業者に任せて、知らない人が部屋に入ることに抵抗を覚えていたわたしを気遣った宇都宮さんと安室さんが作業をしてくれた。今回も"座っていろ"と部屋の隅に追いやられてしまった。……退屈だ。
「……ねぇ、ポアロ行ってきてもいい? お昼ご飯ハムサンドがいい」
「あぁ、構わない。降谷さんがいるはずだ」
「二人の分も買ってくるね」
「いいのかい?」
「もちろん」
作業する横でバッグの中身を確認し、部屋を出るのならどちらかが残るように一言伝えてから、あとをお願いして部屋を出た。
春めいてきて温かくなった空気の中をのんびり歩く。
足が遠のいていたポアロのドアを開けると、二人分の"いらっしゃいませ"と言う声が聞こえてきた。おやつの時間帯より少し後、お昼より前。変な時間帯のためか、お客さんは他にいない。
カウンター席に案内されて、素直に座った。
「アイスティーをひとつと、ハムサンドを三人分包んでもらえるかしら」
カウンター越しに注文を伝えると、零さんはきょとりと目を瞬かせた。
「おや、珍しいですね」
「新しく買った家具の組み立てを友達にお願いしてるの。相談したら引き受けてくれて」
家具の組み立てを引き受けてくれるような友人は、宇都宮さんか風見しかいない。零さんは納得してくれたようで、アイスティーをつくり始めた。
「なるほど。ちなみにどういった物を買われたんですか?」
「気になるの?」
「えぇ、とっても」
「……んー、内緒。うちに来てからのお楽しみ」
「えっ!?」
突然横から聞こえてきた声に、零さんと揃ってそちらを見る。
洗い物をしていた梓さんが、驚いた顔でわたしたちを見ていた。
視線に気がつくと、泡がついたままの手を胸の前でぱたぱたと振る。
「あ、す、すみません……! 盗み聞きをしていたわけじゃ……」
「落ち着いてください、梓さん。大きい声を出されたので驚いただけですよ。ね、千歳」
「えぇ」
「それもすみません……」
何を言っても落ち込ませてしまいそうだ。零さんは苦笑して、"まずは泡を流しましょうか"と梓さんを落ち着かせていた。
「あの、家に行くってことは、お二人ってもしかして、お付き合いを……?」
おずおずと訊いてきた梓さんに、零さんはためらいもなく頷いた。
「えぇ、本業の方で知り合って、少し前にここで再会してからひっそりアプローチしていたんですよ。最近ようやく受け入れてもらえて」
「そうだったんですか……!」
下手なことは言わずに頷くに留めておいた。これからは外では"透さん"と呼ぶべきだろうか。
"安室透は、通訳者の穂純千歳を守る"――ここまで直接的になるなんて思いもしなかったけれど、普段から会うことを了承してくれたようで素直に嬉しい。
梓さんは真剣な面持ちで、わたしに"炎上したら恐ろしいですからね、絶対に内緒にします!"と誓ってくれた。
ハムサンドを作って包んでくれた透さんから紙袋を受け取って、会計をしてもらった。
「本業の仕事があと少しで落ち着くので、そうしたら行きますね」
「えぇ、待ってるわ」
梓さんには"探偵の仕事"だと、わたしには"公安の仕事"だと伝わるような言い回しで、約束を取りつけられる。
にっこりと笑う透さんに手を振り、"ありがとうございました!"と元気な挨拶をしてくれる梓さんに会釈をして、ポアロを後にした。
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