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パスワードを解除したデータを持った藤波さんは、心なしか弾んだ足取りで霞ヶ関に帰っていった。数年間背負ってきた重荷が下りて、解放されたみたいだった。
零さんはわたしの家に来て、返してもらった定期券と時刻表を燃やしてくれた。
これで、わたしの故郷の痕跡は何一つなくなった。ほんの少し寂しくはあるけれど、わたしは零さんと一緒にいることを選んだのだ。
きっとこの寂しさも、少し経てば消え去るだろう。
コナンくんと博士がわたしの荷物を持ってきてくれて、荷物と交換で借りっぱなしだったスマホを返した。
荷物の整理は明日でいいか、とキャリーバッグのキャスターを拭いて寝室に持ち込んだ。
やることも落ち着いたのでソファに座っていた零さんの左隣に腰を下ろすと、右手を握られる。
「千歳」
「うん?」
「改めて、協力者としての登録と交際の申告をしておく。いいか?」
こちらの反応を窺うような口調に、つい笑ってしまう。
「ふふ、もちろん。断ると思ってたの?」
顔を覗き込むと、零さんは瞳を揺らして自嘲気味に笑んだ。
「……現実味がない。ドイツかアメリカへ行ってしまうと思っていたから、今もこうして隣にいることが信じられない」
「ほっぺ抓ってあげよっか」
「あぁ……それがいいかもしれない」
「変な零さん」
しょうもないやりとりをして笑い合っていると、零さんのスマホに連絡が入る。
表情を窺ってみると、緊迫した用件ではないのだとわかる。聞くことでもないかと、書斎にコーヒーを取りに行った。長話ではなかったようで、戻ってきたら零さんは通話を終えていた。
「千歳。人を雇う用意はしているか?」
「え? 全然。どうして?」
「……研修生受入料として謝礼は払う。一人、こちらから紹介するアルバイトを雇ってくれないか」
人を雇え、とはどういう。
零さんのことだから、要注意人物を手元に置いて監視してくれ、なんてわたしに言うことはないだろう。
「よくわからないけど……ちょっと待って」
仕事用のスマホを出して、お世話になっている税理士の先生に電話をかけた。
そういえば確定申告もお願いしたっけ。もうすぐ申告期限だけれど、問い合わせもこないので大丈夫なのだろう。
事務の女性が出て、先生に取り次いでもらった。
「穂純です。先生、すみません……新しく人を雇いたいんですけど、準備ってどうしたらいいんでしょうか」
『あー、給与支払事務所の開設届と、人数少ないなら納期特例もか……任せてくださるなら届出は作りますよ。手続きの指導もさせていただきます。それと知人の社会保険労務士も紹介します。良ければ顧問契約してやってください』
「じゃあお願いします。社労士の先生にはいつ頃お会いできますか? わたしは来週の金曜日まででしたらいつでも大丈夫です」
『連絡とって、日程調整したらまたご連絡しますよ。そうそう、確定申告も無事終わりましたから。近々ご報告に上がりますね』
「すみません、よろしくお願いします。失礼します」
よし、とりあえず面倒そうなことは専門家に任せられそうだ。先生はわたしがお金に糸目をつけないことを知っているので、相談事と期限を伝えればすぐに引き受けてくれる。
大丈夫そうだと頷いて零さんの顔を見上げると、まじまじと顔を見られていた。
「え……なに?」
つい、と視線を逸らされる。
「いや、悪い。仕事してるな、と思って」
「どういう意味……!?」
「さぁな」
くすくすと笑われて、からかわれていることだけはわかった。言う気もなさそうなので問い詰めるだけ無駄だ。
さて、後処理は公安に任せておけばいいと言われている。わたしにできることはない。
あとは、赤井さんとコナンくん、それと技術的に協力してくれたであろう博士にお礼を言って、哀ちゃんにも組織に関わってしまったことをちゃんと伝えないと。お礼にお菓子ぐらい持って行った方がいいだろうか。赤井さんはウイスキー一択。
「零さん、ウイスキーは詳しい?」
尋ねると、零さんは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……赤井にか」
「そう。たくさんお世話になったし、お礼したいなって」
零さんはこめかみを揉んで、深い溜め息をついた。
「……癪だが、本当に癪だが、千歳の頼みだから付き合う。ついでに買い出しもしよう」
「しばらく泊まるの?」
「千歳には警護が必要だからな。俺が行かない方がいいところに行くなら、白河さんを呼ぶから言ってくれ」
「手厚いのね?」
握られていた右手を、零さんの頬に当てられる。手のひらにじんわりと熱が伝わってきた。
零さんはわたしの手の温度に浸るように目を伏せた。
「色々と助けられたからな。藤波も、僕も」
「……そっか」
データにパスワードをかけたのは自己保身のためにやったことだったけれど、結果的に藤波さんの助けになったのならそれでいい。
零さんはわたしの手を離すと、"出かける準備をしてこい"と穏やかな声で言った。
さて、いつもどおりにするのならタイトスカートを履くべきだけれども。目立たない色だとはいえ、脚に何枚も絆創膏を貼りつけているのはいかがなものか。
「……零さん。ちょっと遠出しない? 先に買い物して、ご飯食べて帰ってこようよ」
「ん? ……あぁ、服か。いつものだと絆創膏が隠せないからな。……パンツスタイルは?」
「持ってない」
「わかった、じゃあ遠出しよう」
哀ちゃんと話をするために行ったデパートでいいか。大体の物は揃うだろう。
出かける準備を終えて、二人で地下駐車場に下りた。
零さんは助手席に座ってシートベルトを締める。
それを横目で見ながらエンジンのスタートボタンを押して、シートベルトを締めた。
「新鮮な気分だな。千歳の運転で出かけるのは初めてだ」
「いつも零さんの車だもの」
「別に運転するのは平気なんだが……」
「さっき運転してもらって今更かもしれないけど、安静にするように言われてるんでしょ?」
結局、わたしがいなければ負わなかった怪我だ。
罪悪感を抱いていることを察してくれたのか、零さんは観念したように溜め息をつく。それから、優しく笑ってくれた。
「……任せた。夕食の店はこっちで選ぶぞ。昼はサービスエリアかな」
「サービスエリアのラーメンっておいしいよね」
「美味いところ知ってるぞ。どこのインターまで行くんだ?」
なんてことのない会話ができることがうれしくて、つい口を開いてしまう。零さんも元々はおしゃべりなためか付き合ってくれて、道中はとても楽しかった。
零さんのおすすめのラーメンをお昼に食べて、一度だけ行ったことのあるデパートとその近所のスーパーで買い物をした。冷凍が必要な物はまた折を見て買ってきてくれるという言葉に甘えて、数日空けたがために寂しくなった冷蔵庫と戸棚を元に戻そうといろいろ買い込んだ。
皆で食べてもらえそうなお菓子も選んだし、赤井さんに贈るウイスキーは零さんに聞きながら選んだ。
数日泊まれるようにわたしの家に置いていない日用品も買って、夕食も食べて帰ってきた。
車を下りれば零さんは敬語になるし、わたしも口調が少しきつくなる。それでも一緒に何かができることがうれしくて、時間が過ぎるのはあっという間だった。
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