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 彼の手が温かいままであってくれればいい。生きていてくれたらいい。そのための手助けならなんだってしたい。
 その根幹は、何だっただろう。
 始まりは、もっと自分勝手な理由だった。
 わたしの秘密を暴いてほしかった。本当に、暴いてくれた。信じ難いはずの話を信じてくれた。――この人にならすべてを預けられると、勝手に縋った。
 助けられる人の命と知っている未来とを秤にかけて悩むわたしを、"苦しむのなら自分も一緒だ"と言って導いてくれた。
 現実を受け止められないわたしに、優しく現実を突きつけてくれた。
 孤独感に苛まれてどうしようもなかったわたしを、懐に入れてくれた。
 彼に生きていてほしい。――わたしが、そばにいたいから。

「愛想を尽かされるのは……わたしの方。わたしが……、あなたのそばにいたくて……だから生きていてほしかった、そばにいる理由をつくりたかった。全部……ぜんぶ、自分のためだったの……!」

 厳しい声も、呆れたような溜め息も聞きたくない。
 見放されたようで、苦しいから。だから、何も聞かないまま遠くへ行ってしまいたかった。
 自己保身しか考えられない、どうしようもなく弱い心。
 呆れられて、当然だ。

「呆れるでしょう……? こんな、自分勝手で、あなたには……釣り合わない」

 言葉にすればするほど、心がずきずきと痛む。自覚している欠点を指摘されるのは、それが自分の声であっても痛むものなのだろうか。
 漏れる嗚咽を、口元を押さえて隠した。
 まだ質問に答えていない。彼に対してだけは、誠実でいたかった。過去も身分も何もかも、偽っているからこそ。

「すき……それでもすきなの、零さん、離れたくない……!」

 "好き"だと告げる権利も、名前を呼ぶ権利も、わたしにはない。
 ぼろぼろと溢れる涙が、彼の手を濡らしていく。――あぁ、止めなくちゃ、泣くのは卑怯だ。思考とは裏腹に、涙は止まってくれない。
 泣き顔を見られたくなくて、後退って頬を包む手から逃れた。
 蹲って整わない息にひくひくと喉を鳴らしていると、微かな衣擦れの音が聞こえた。
 地面ばかりが映っていた視界に、片膝をつく彼の脚が飛び込んでくる。

「千歳。いいんだ、俺を手伝うのは国のためじゃなくていい」

 優しい声が落とされて、温かい手で背中をさすられる。

「国のために働くのは、警察官である俺の仕事で……そういう俺を支えたいと思ってくれているなら、それで十分だ。千歳が俺を好いてくれている気持ちに、そんな柵は要らないさ」

 諭すような声。止めなければならないはずの涙は、止まってくれない。

「千歳。顔を上げて、ひとつだけ教えてほしい」

 声が真剣さを帯びた。この耳がそんな機微を拾えないほど鈍感なら、どれだけ良かったことか。それなら、彼のそばにいたいだなんて思うことはなかったかもしれないのに。
 けれど今更そんなことを考えても遅く、わたしにはその声に反抗する勇気がなかった。
 顔を上げると、目元を親指で拭われる。
 視線が合わさり、そのまっすぐさに逸らしたくなってしまう。彼の真剣さに負けて、逸らすことはできなかったけれど。

「俺と一緒にいて、千歳は本当に幸せになれるのか?」

 ジンやベルモットに"バーボンの飼い猫"だと認識されている以上、わたしには組織にまつわる危険が付き纏う。
 Dr.アパシーや今回の件で、きっと色々な人からの恨みも買っている。今回の件に限っては、自業自得だ。
 幸せになる道は、きっとたくさんある。数多の危険から身を隠す方法だって、準備してくれる人がいる。
 それでも背を向けてしまって選べないのは、いま目の前にいるひとに未練があるからだ。

「わたしは……あなたといるときが、一番心地が良い。苦しむならあなたと一緒がいい。あなたのそばにいられれば、それだけで幸せ。あなたに愛してもらえたら、尚のこと」

 偽りはなかった。こんな醜態を晒してまで、嘘をつく理由もなかったけれど。
 彼は嬉しそうに目を細めて、そうか、と相槌を打った。

「それなら俺も……もう君に嘘はつかない。"ここに戻ってこない方がいい"なんて、欠片も思っちゃいなかった。たとえ生活水準を落としたくなかったからだとしても……手の届く場所に戻ってきてくれたことが嬉しかったんだ。"愛せなくなった"と嘘をつかずに済んだことに安堵もした。本音を聞いて俺がどれだけ浮かれた気持ちでいるか……君にはわからないだろうな」

 心地良い低音で紡がれる言葉の数々に耳を傾けているうちに、涙は止まっていた。
 くすりと笑われて、目尻を優しく撫でられる。

「好きだ。君が俺といて幸せなら……俺も君のそばにいることを望める」

 頬を手で包まれて、額をこつりと合わせられた。

「バーボンはキティを守る。安室透は通訳者の穂純千歳を守る。降谷零は、君自身を愛して守る。――だから、一緒にいよう」

 広い背中に手を伸ばして、シャツを握った。
 零さんも背中に片手を回してくれて、そっと抱き寄せられる。
 吐息が唇にかかるほどの至近距離で、視線が合わさった。
 誘われるように目を伏せると、唇に柔らかい感触が押しつけられる。
 アークロイヤルの仄かな苦味が残る、泣きたくなるほど優しいキスだった。

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