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「……妬けるな」
苦々し気に落とされた言葉。覚えのあるやりとりだと思いながら携帯灰皿に溜まった灰を落とした。
「嫉妬?」
「二度は言わないぞ。俺の代わりだったんだ、妬くに決まってる」
「自分で手放したくせして?」
からかいを交えて問いかけると、褐色の手が柔らかい金髪をぐしゃりと乱した。
目元が隠されて、表情が見えなくなる。
「あぁ、そうだ、俺は自分で手放したくせして――結局、手放せるだけの力も、覚悟もなかった。……公安が聞いて呆れる。男として最低だ」
歪められた口元を見ていられなくて、降谷さんから顔を背けて景色を眺めた。
煙草は持ったまま、手摺に両腕を載せて凭れかかる。
「気づけなくて……すまなかった」
「うん」
謝罪に対して相槌を打つ自分の声は、ひどく穏やかだ。
目の奥が熱くて、今にも涙が溢れてしまいそうなのに。
わたしのせいだ、彼が自信なさそうにしてしまうのは、自分を責めるような言葉を発してしまうのは。
それをうれしく思ってしまう自分の心根がとてつもなく醜く思えて、煙草を持たない手をきつく握り締めた。
「俺のせい、だったんだな」
「あなたのせいじゃない。あなたのため、だったの。だから、これはわたしの押しつけよ」
「それでも……俺は、君を傷つけた」
降谷さんに自分を責めて欲しくない。
見えることはないとわかっていながら、無理矢理口の端を上げた。
「あら、安月給で働くのがいやになったのも事実よ? 一番の理由を、わたしが口にしなかっただけ」
降谷さんのためでもあったし、今の仕事や生活が心地良いというのも事実だった。
「頼むから……! 頼むから……俺を、楽にさせないでくれ」
言葉尻すら聞かずに遮られ、逆効果だったのかと息を吐く。
"責めてくれ"と言わんばかりの声に、胸が締めつけられるような心地がした。
「……うん」
堪えていた涙が、溢れ出る。
ぱたぱたと、手摺の上に載せた腕に雫が落ちた。
「これでもね……本当のことを言わないように、がんばったのよ?」
「あぁ、見事に騙されたよ……」
吸う気もなくなった煙草の先を携帯灰皿の底に押しつけて、火を消す。手を離すと、ぽとりと倒れて細い煙草は灰の中に埋もれた。
「結局ね、こっちにいることを選びたかったのは本当なの。ただ……家族とか、仕事とか。いろいろなものを、中途半端に投げ出したことだけが気がかりだった」
「……あぁ」
降谷さんも煙草の後始末をして、携帯灰皿に蓋をする。ほのかな紅茶の香りがベランダに残った。
「全部にお別れをして、こっちに戻ってきて。ベルモットから"バーボンがわたしを逃がそうとしている"って教えられたとき、こっちに戻ってきて正解だったと思った」
「だがそれは……」
振り返って彼の右手を取り、そっと額に当てて目を伏せる。
初めにわたしを守ってくれた手。わたしより少しだけ高い体温。一番安心感を与えてくれる手。守りたい理由なんて、それだけだった。
「この手が温かいままであってくれるなら、あとはどうでもよかった」
目を開けて、半分以上が遮られた視界の中で降谷さんの胸元を見つめる。
「降谷さん、できることならあなたの手助けがしたい。それがどれだけ、危険でも」
額に当てた手がひくりと跳ねる。まるで、怯えるみたいに。
「……っ」
顔を上げて、降谷さんの顔を見た。
わたし自身は今までのどの瞬間より、穏やかに笑えていると自覚していた。
泣きそうに歪む彼の顔と、対照的に。
「……わたしはどうしたらいい? あなたの心臓を止めたくないの」
死ぬのは怖い。疑われるのもいや。全部汲み取って、わたしのことを探るコナンくんと赤井さんからも守ってくれた。
頼られないのは少しさびしいと、頼っていいのだと言ってくれた。
掴んだ些細な情報を役立てて、助かったと褒めてくれた。
自分が不利な立場に置かれることを理解していながら、裏社会に近づけたけじめをつけるためだと自分の望みにも蓋をしてわたしを帰してくれた。
優しいひと。わたしが一番頼りにしている人。恋を、教えてくれたひと。
だから彼が苦しまずに済むのなら、もう捨てられたっていい。
そばにいたい。わたしを守ってくれた手の温度を確かめていたい。ずっと、愛されていたい。――一番の本音を、無理矢理抑え込んだ。
「少し手を借りることになるかもしれないけれど……この国から出た方がいいなら、ドイツへ行くわ。エドのところなら安心だし……。組織にも"裏切られたから殺した"とか、いくらでも言い訳はできるでしょう? 赤井さんも"国外に逃げるなら手を貸す"って言ってくれているから、民間の組織が不安だって言うならそっちでもいいし――、!」
不意に、腕の中に閉じ込められた。
逞しい肩に口が当たって、おしゃべりを無理矢理止められる。
強い腕の力は、少しだけ苦しい。
「……千歳」
だけど、温かい腕の中に閉じ込められることが、名前を呼んでもらえることがうれしい。きつく抱きしめられた苦しさなんて、どうでも良くなるほどに。
「悪い。俺は……、もう騙されてやれない」
掠れた声が、耳元で低く響く。
一番の本音を言っていないことなんて、彼にはお見通しのようだ。二度も同じ手を食わされてはくれない。
「心臓が止まるかと思ったんだ……あんな真似をさせてしまうなら、俺の目の届くところにいてもらえば良かった。らしくもなく、後悔したよ」
「……っ」
「だが同時に嬉しかった。俺のためにここまでしてくれる、愛してくれている……喜ぶべきじゃないのにな」
降谷さんも、同じことを思ってくれている。
お互いが取り乱したことを、そうなるような行動を取ってしまったことを悔いて、同時に相手がそれほどまでに心を分けてくれていると喜んで。
腕の力が緩められて、少しだけ体を離される。両手で頬を包まれて、手のひらの暖かさに目を細めた。
「千歳はどうなんだ? もうこんな俺には愛想も尽きたか?」
"それなら仕方がない"と言いたげな、哀しい笑み。
彼はわたしの心を拾わない。わたしの口から言うように、誘導している。
ここにきて笑う余裕なんてなかった。
降谷さんの手に自分の手を重ねると、降谷さんが小さく息を呑んだ音が聞こえた。
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