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降谷さんは車を発進させて、工場の跡地を出た。
よくよく見れば黒を基調とした上品さを漂わせる服装で、公安として来たわけではないのだと理解する。
その方が都合がいい。公安の人間は降谷さんのことを知っているはずだから。たぶん、そういう理由だ。
しばらく周辺を走っていると、降谷さんが"来たか"と呟いた。突然ハンドルを切られ、ぐらりと体が揺れる。
咄嗟にシートベルトを握って身を縮こまらせた。
「容赦がないな……!」
降谷さんの独白とともにエンジン音が響き、スピードが上がる。
怖くて窓の外の景色を見られない。絶対、フロントガラス越しに見える景色が横滑りしてる。
耳元でガラスにヒビが入るような音がして咄嗟に体を離した。何かがぶつかったような痕が残っている。
「穂純さん、フードを被って頭を下げてくれ」
「!」
言われたことに従うと、運転席の方から窓を開ける音がした。
ぐん、と体が引かれ、シートから体が離れそうなほど引っ張られる。慌ててダッシュボードに手をついた。この感覚、まさか。
「ねぇこれ後ろ向きに走って……!」
「そうだ! 舌を噛むから口を閉じてくれ!」
降谷さんは運転席から窓の外に腕を伸ばし、拳銃を構えて何発か撃った。
数秒後に大きな衝撃音がして、前方で事故が起きたのだとわかる。
「二人足止めした! 直ちに確保しろ!」
おそらくは通信器に向けて言い放つと、すぐに強引な方向転換をして前を向き直した。
体を起こしても何も言われなかったので、背凭れに背をつけて溜め息をついた。
「……びっくりした」
「荒い運転だが我慢してくれ」
「大丈夫。驚いただけ」
コナンくんを助け出したときやキュラソーとのカーチェイスで知ってはいたけれど、まさか彼の運転技術を助手席で体験することになるとは思わなかった。
『千歳さん、聞こえる?』
イヤホンから飛び込んできた幼い声に、慌てて"コナンくん?"と返事をする。
『赤井さんから連絡。スナイパーは三人、スポッターは一人だけ。いま二人止めたから、あと四人……追手が来るハズだよ』
こちらの音が邪魔になるからか、赤井さんはコナンくんとだけ連絡を取り合っているらしい。
「わかった。降谷さんにも伝えるね」
『うん!』
降谷さんにコナンくんからもらった情報を伝えると、頷かれる。
その横顔は緊迫した状況に追い詰められたような、それでいて愉しんでいるかのような――わたしの理解の追いつかない、表情だった。
「!」
降谷さんは前方を睨みつけて、わたしの後頭部を押さえ伏せさせてきた。
フロントガラスの割れる音、すぐ後ろでパシュ、と布が避けるような音が立て続けに鳴る。
「つっ……!」
呻き声が聞こえて降谷さんの方を見ると、わたしの頭を押さえた腕から血が出ていた。
「降谷さ……っ」
「顔を上げるなッ、掠っただけだ!」
口を噤み、頭を抱えて体を折り曲げる。直後に発砲音がすぐそばから聞こえてきた。同時にガラスの割れる音が響き、バラバラと細かい破片が降ってくる。
遅れて、状況を理解した。――狙撃されて、降谷さんはわたしを弾道から隠した。フロントガラスにヒビが入り、視界が悪くなって持っていた銃でガラスを砕いて退かしたのだと。
「すまないが、靴下に仕込んであるカートリッジを取ってくれないか」
「! わかった」
頭は下げたまま、シフトレバーを握る腕の上から手を伸ばしてズボンの裾を捲った。くるぶしより少し上の丈の靴下に挟まれたカートリッジを見つけて引き抜く。
降谷さんは銃に入っていたカートリッジを後部座席に放り、わたしに向きを指示して持たせると銃のグリップを押しつけてカートリッジをセットした。
「伏せていてくれ!」
言葉と同時に降谷さんも頭を低くし、急ハンドルを切った。アームレストを掴んで、かかる遠心力に耐える。
降谷さんはハンドルの上から拳銃だけ出して発砲し、運転席側の窓ガラスにかけて数発なぞるように撃った。ガラスの割れる音が聞こえ、追っ手の車に当たったのかと考える。
「何か音は?」
「ガラスが割れる音が……」
聞かれたことに答えると、降谷さんは舌打ちをした。
「しぶといな……!」
本当は事故を誘発したかったに違いない。
すぐに車はまっすぐに走り出した。
『千歳さん、スナイパーを一人無力化したよ!』
「了解!」
コナンくんからの連絡をそのまま降谷さんに伝え、息を吐く。
「ようやく発砲許可が下りたか……、っ!」
またハンドルが切られ、ぐるりと向きが変わる。直後に、リアガラスに何かがぶつかる音がした。
顔を伏せて外が見られない状態では、何が起こっているのかさっぱりわからない。
「穂純さん、前を見ていてくれ」
「え、えぇ……っ」
進行方向を見ながらちらりと降谷さんの方を窺う。
降谷さんは運転席のドアを細く開け、そこから拳銃を持った右手を出した。低い位置で構え、隙間から背後を覗いている。
また前を見たところで発砲音がして、背後で何かが破裂するような音がした。
「パンク……?」
「破裂音がしたのか?」
「微かだけれど……っ!」
降谷さんはドアを閉めるとまたハンドルを切り、バック走行に切り替えた。言われる前に頭を下げ、ダッシュボードに隠れる。
また発砲音がして、その後今度は爆発音がした。
「車を一台潰した! 二人いるはずだ、警戒しつつ身柄を確保しろ!」
そのままドライブに切り替わり、86は爆発した車とビルの間をすり抜けて来た道を戻る。
「コナンくん、残る二人って……」
『ターゲットは原則ツーマンセルで行動する。例外は二人のスナイパー。千歳さん、リーダーが乗ってる車の名前わかる!?』
バーで聞いた会話を思い起こす。桜木くんがリーダーの持っていた車のキーを見て、話しかけて。
マセラティであることはキーについていたマークから確実だとわかっている。
「最近買った……マセラティの、スポーツカーだったことは、わかるんだけど……」
「グラントゥーリズモかグランカブリオのはずだ!」
名前を言われてもわからない。
緊迫した状況で思い出さなければならないことを思い出せないもどかしさにざわつく胸を押さえながら、記憶を手繰り寄せる。
はた、と桜木くんの"オープンカーには乗らないのか"という言葉を思い出した。
「っ、オープンカーじゃない方!」
「なら正面から来るあれがリーダーだな……」
降谷さんは不敵に笑い、拳銃を構えながらアクセルを踏み込んだ。
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