19
「緊張してきましたか?」
横から投げかけられた声に、はっとして顔を上げた。
咄嗟に笑顔をつくって、運転席に顔を向ける。
安室さんは、いつもの笑みを崩さずにいた。
「してない、って言ったら嘘になるわね」
「無理もないですよ。大丈夫、あなたのことは我々が守ります。穂純さんは本来の仕事と、他人の会話に耳を傾けることに集中していればいいんです」
「えぇ、……そうね」
わたしがやるべきことは簡単だ、いつも通りだ。
そう思うと、少しだけ心が軽くなる。
「ありがとう、安室さん」
「いえいえ。何か話した方がいいですか?」
「そうしてもらえるとありがたいわ」
安室さんは徐に、最近人気が出てきたというケーキ屋の話を始めた。
こちらが興味を持ちそうな話題をあれこれ引っ張り出してくるのだから、すごいと思う。
核心を突かれるような話も出てこなくて、会場に着くまでにかなりリラックスすることができた。
貸会場に着くと、すっかり日は暮れていた。
後部座席からパンプスを取って、靴を履き替える。ピンヒールはやめたけれど、それでも高めのヒールだ。事前に安室さんに確認を取っているから、大丈夫だとは思うのだけれど。
それからハンドバッグを取り出して、既にスーツケースを持って車を降りていた安室さんの手を借りて車を降りた。盗まれて困るようなものもないので、サブバッグは車の中に置いておくことにした。
さりげなく手を取られ、履き慣れているとはいえ日常ではあまり履かない高さのヒールでも危なげなく歩くことができた。スマートすぎて断れなかったな、と思う。
入り口に着くと、忙しなく会場の最終チェックをするスタッフたちを背に、既に正装に着替えたクラウセヴィッツ夫妻が立っていた。
≪やぁ、お待ちしていたよ≫
≪チトセ! 今日もきれいね、素敵だわ≫
穏やかに迎え入れてくれるエドと、はしゃぐヘレナ。いつも通りなことに安心する。
ヘレナにはお礼を言って、安室さんを控室へ案内してもらった。
会話は基本的には英語で、必要なら日本語の通訳を。そういう依頼だ。
"こっちよ"と安室さんを案内するヘレナを見送って、エドと一緒に準備中の会場を眺める。
メイン会場となる大広間と、そこに繋がるエントランス、奥の両端から控室へと続く通路が二本。なんとはなしに数日前に見た見取り図どおりであることを確認しつつ、気になったのでその日の二人での打ち合わせについて水を向けてみた。
≪……あの日は何を話していたの?≫
≪君のことについて訊かれたよ。まぁ、私も詳しくは知らないから碌な答えも返せなかったがね。君が詳しく話さない理由もそれだと思った。知っていて話さないのと、知らないから話せないのとでは大きく違う≫
≪えぇ、エドたちに迷惑をかけたいわけではないもの≫
≪過去はどうにもならない。私とヘレナが知っているのは、初めて出会った日以降の君だよ、チトセ≫
≪そうね≫
≪君が信頼するに足る人間だと、ぜひとも彼にもわかってもらいたいものだな≫
≪そうだといいのだけれど≫
質問に来たスタッフにエドが受け答えするのを見て、その場を離れた。
近くにいた女性スタッフにお手洗いの場所を聞いて、案内してもらう。
帰り道はわかるからと仕事に戻ってもらって、用を足して化粧を少し直した。
鏡を見て、溜め息をつく。――ひどい顔だ。
それでも無理に笑えば、それなりになる。
縋れば甘やかしてくれる人なんて、いないのに。どうして心細さばかりが増すこんな状況に、身を置いてしまうのか。
エドを助けたい気持ちは本物だし、怖いのも事実。矛盾ばかりで、どうしようもない。
いい加減戻ろうとお手洗いを出て、廊下を歩く。
≪チトセ!≫
曲がり角に差し掛かったら、丁字になっている廊下の曲がろうとしたのと反対側の通路から、ヘレナに声をかけられた。
後ろからは、黒のタキシードに身を包み、ミルクティー色の髪を後ろに撫でつけた安室さんが苦笑しながら歩いてくる。
きれいなものやかっこいいものに目がないヘレナがはしゃぐのも無理はなかった。
わたし自身、少し見惚れてしまった。こんな人の隣を歩くのかと、気後れもした。
≪どうでしょう、彼女の隣に立っても見劣りしない程度にはなりましたか?≫
こちらが見劣りするぐらいじゃないだろうか。
わたしの気持ちなど露知らず、ヘレナははしゃいで答える。
≪とっても素敵よ! ほらチトセ、横に立ってみて≫
≪ヘレナ、はしゃぎすぎよ≫
≪いいのよ。あぁ素敵ね、エドも昔はこんなにいい男だったのよ≫
≪あら、今もダンディーで素敵じゃない≫
≪そうね、そうよね、チトセならそう言ってくれると思っていたわ! でもエドは私のものよ?≫
≪わかってるわよ、お母様?≫
冗談のように"お母様"と呼んでみると、ヘレナはとても喜んだ。
少女のようにはしゃぐ姿が似合うから、つい微笑ましく思いながら見てしまう。
≪素敵なご婦人ですね≫
≪そうね。……あなたにも驚いたわ、つい見惚れちゃった≫
≪お世辞なんか言っても何も出ませんよ?≫
≪お世辞じゃないわよ≫
さっきもしたやりとりだ、と顔を見合わせて笑った。
ヘレナがエドにも見せに行きましょうと催促するので、それを追って歩き出す。
≪どうぞ≫
白手袋をはめた手を差し出されて、お礼を言って素直にその手を取った。
この距離感には慣れておかなければならないのだ。少なくとも、パーティーの間"彼がパートナーだ"と言えるぐらいには。
つい視線を逸らすと、安室さんの含み笑いが聞こえた。
自分の容姿もこちらの心情もわかりきっているといった様子のものだった。悔しい。
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