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 風見とベルモットに会って鍵の受け渡しを終えた夜、バーに行くと桜木くんが神妙な顔で話しかけてきた。

「ちせちゃん、ちょっといいかな」
「? うん」

 とりあえず赤井さんにバーボンを持って行って、桜木くんの話を聞くのだと伝える。
 赤井さんはすんなりと頷いてくれて、カクテルとケーキをご馳走してもらいながらカウンターで話を聞いた。
 安室さんは別のケーキを作り終えたようで、調理台で切り分ける作業をしている。あまり聞かれたくないけれど、ロシア語で話せば今度はターゲットたちに聞かれてしまう。どちらに知られる方が良いかなんて、火を見るよりも明らかだ。
 桜木くんはバーボンの入ったグラスを傾けながら、物憂げな表情をした。

「妹の……由香のことなんだけど。ずっと会ってないから心配で」
「うん」

 昨日、リーダーが取引相手である反社会的組織の構成員からの襲撃を受けた。
 由香ちゃんを監視しているのがその組織の構成員だから、由香ちゃんが危害を加えられていやしないかと不安になったのだろう。

「池田さんがいいって言ってくれたら……様子を見に行ってもらえないかな」

 どうすべきだろうか。いきなり助けに行くよりも、事前にコンタクトを取った方が無難である気はする。風見からは桜木兄妹について何の情報も来ていないし、判断に迷うところだ。
 少し考えて、結局、赤井さんに判断を仰ぐことにした。

「聞いてくる」

 カウンターに安室さんがいるから見ていてもらえるはずだと、グラスはそのままにしてスツールから降りた。
 下世話な話にも適当に相槌を打っている赤井さんに近づき、ソファの背凭れから身を乗り出して耳元に顔を近づける。

「どうした」
「妹の様子を見てきてほしい、って」
「なら明日だ」
「ん、わかった」

 丸い氷のみが残ったグラスを手渡されて、それを受け取る。
 マスターにお願いして新しくバーボンを入れてもらい、赤井さんに渡してから桜木くんの隣に戻った。
 赤井さんは桜木くんの心配事を解決するついでに取引相手の動向も軽く探ってくる、と街中で見られてもいいように話をしてくれていた。それこそわたしを"おつかい"に出して、という話になるのだろう。
 わたしには少し高いスツールに座り直して、ティフィン・ミルクを飲んだ。

「……どうだった?」
「明日ならいいって」
「そ、っか……ありがとう。えっと、これが由香の写真。待ち合わせ場所と一緒にメールするね」
「ん」

 桜木くんはメッセージアプリで由香ちゃんとやりとりをした後、わたしのメールアドレス宛に写真と由香ちゃんとの約束の内容を送ってくれた。
 借りたスマホだし、赤井さんがハッキングへの対策を施してくれている。待ち合わせ場所について口にせずにいてくれたのはありがたかった。
 スマホの電源を落として、コートのポケットにしまう。
 安室さんお手製のケーキはとてもおいしくて、崩す手が止まらなかった。
 グラスも空になったので、次は何を飲もうかとお酒の並ぶ棚に視線を巡らせる。
 気がついた安室さんが、"何かお作りしましょうか"と尋ねてくれた。

「お兄さん、モーツァルトミルクつくれる?」
「えぇ。チョコレートがお好きなんですね」
「おいしいから」

 作ってもらったカクテルのグラスをお礼を言って受け取り、口をつけた。
 心配されているのか、チョコレートの風味は薄めだ。ミルクが強い。
 おいしいことには変わりがないので味を楽しんでいると、桜木くんは頬杖をついてこちらを見た。

「ちせちゃんはさ」
「うん」
「今、幸せ?」

 視界の端で、グラスを拭く褐色の手がほんの一瞬、動きを止めた。
 桜木くんは、眉を下げて笑っていた。
 問われて、少し考えてみる。
 昼間に鍵を渡した時点で、降谷さんなら気がついているはずだ。
 鍵のナンバーを調べたのは赤井さん。赤井さんはわたしと手を組んでいるけれど、ベルモットと接触するような危険を冒すはずがない。コナンくんが関わっていることは、知らないはず――降谷さんが知る中で鍵の入手先の可能性として残るのは、きっとわたしだけ。
 ベルモットと会っていると、気づかれてしまっているはずだ。
 ジンにもベルモットにも顔を知られてしまった。あまつさえ、ベルモットには手を貸している。
 責められても仕方ない。呆れられても仕方ない。
 すべてが終わった後のことを考えると不安にはなるけれど、やっぱりそばにはいてくれないかもしれないことを考えると、悲しいけれど。
 彼のために何かができる、それはわたしにとって誇れることだ。だから、今こうしていることだって、辛くはない。それどころか、喜ばしいことだ。きっともう、こんな風に手助けできることなんてない。

「……うん、幸せ」

 作ってもらったカクテルの入ったグラスに視線を落として、頷いた。
 カシャン、と薄いグラスが落ちる繊細な音がした。
 そちらを見ると、安室さんがシンクを見下ろしていた。彼が落としたのか。

「すみません……」
「安室君、怪我はしていませんか?」
「僕は、平気ですが」
「誰にだって失敗はありますよ。気にしなくていいですから、向こうの棚から手袋を出してきて片付けてもらえますか?」
「……はい」

 わたしと桜木くんの視線を感じたのか、安室さんがこちらを見る。
 困ったような顔で笑んで、"騒がしくてすみません"と謝ってマスターに言われた棚の方へ歩いていった。

「ちせ。帰るぞ」

 グラスを落とすなんてミスをしてしまった安室さんが心配だったけれど、赤井さんが帰ると言うのなら従うほかない。
 財布を受け取って、マスターに会計をしてもらった。
 会計を終えて振り返る一瞬、安室さんと視線が合う。ふいと逸らされて、つきりと胸が痛んだ。
 彼が望まないことをしているのは、わかっている。喜んでくれるだなんて思っていない。
 財布を返して、赤井さんの手を握った。
 ソファ席に向かって手を振ると、メンバーはひらひらと手を振り返してくれた。可愛がられているうちは、安全だ。
 ネオン街を抜けて、人通りの少ない道を歩く。赤井さんは歩調を落としてくれて、歩きやすくなった。

「千歳。もう演技は良いんだが」

 わかっている。もう、手を離しても大丈夫だって。

「……ごめんなさい」

 骨張った手を離すと、その手がくしゃりと髪を撫でてきた。

「千歳は頑張っているな。……もう少し、頑張れるか」

 後戻りはできない。忠告を受けてなお、わたしはあの場所へ行くことを選んだ。
 赤井さんに気遣ってもらう権利なんてない。
 化粧のせいで雰囲気は違うだろうけれど、できるだけ普段通りに見えるように口角を上げた。

「平気よ。わたしは、大丈夫」

 自分に言い聞かせるように言葉を吐いて、コートの裾を握り締めた。

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