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初めのうちは桜木くんから妹さんの話やダーツが得意だという話を聞いていたのだけれど、勝負の回数を重ねるにつれて桜木くんの意識がダーツ台に向いていくのがわかった。
単純なカウントアップルールで、どうやら赤井さんは勝ちを繰り返しているらしい。
≪アイツ、何杯目だ?≫
≪もう数えてないわよ。化け物なの?≫
ざわつく周囲に、さすがに無視もできなくなる。
会話を何も理解できていないとしたら、なんと言うべきか。
「ねぇ、はじめが勝ってるの?」
「ん? そうだよ。ほとんど真ん中に当ててるんだ。まぁ、相手してるのはあまり得意じゃない人だから、勝ってもおかしくないんだけど……勝つたび飲んでるんだし、さすがにそろそろ酔ってくる……よな?」
「あの人が酔っ払うの見たことないよ」
「うわぁ、強いんだね。あ、また勝った」
赤井さんを見れば、ためらいもなくショットグラスの中身を飲み干していた。
相手は悔しそうにしていて、勝ち逃げが許されなさそうな空気。
平気……ではあるのだろうけれど、長引かせるのも良くないだろう。
「……つまんない」
モーツァルトミルクに口をつけて呟くと、桜木くんはからからと笑った。
「あはは。池田さーん、ちせちゃんが退屈してるみたいですよ」
声をかけられた赤井さんは、こちらをちらりと見て、ダーツ台に視線を戻した。
先ほどまでと変わらない構えで矢を投げ、――その矢は中心から下にずれた場所に刺さった。桜木くんは"三点"と呟く。
十分ブルを狙えているのに、真下にずらして点数を一気に落としたのだ。
≪……流石に酔いが回ってきた≫
赤井さんは額を押さえて、ソファに戻ってきた。桜木くんは赤井さんが座っていた場所に腰を下ろしていたから、立ち上がって後ろに回った。
マスターがチェイサーを持ってきてくれて、赤井さんはお礼を言ってそれを受け取り飲む。
「ほんとは平気なんでしょ」
「どうかな。流石にここまで飲んだことはないさ。助かった」
くしゃりと髪をかき混ぜられた。
「君もな」
赤井さんは桜木くんに視線を向けた。
「……僕にも優しくしてくれるんですね」
桜木くんは切なげに笑って、俯いた。
彼と妹さんのことは、風見にお願いしてあるけれど。変にここで気を許させるのも、良くないだろうか。
「ちせに良くしてくれている。俺はこいつを気に入ってるんでな。君に会うとこいつは機嫌がいいんだ」
案の定、赤井さんは設定を使って取り繕った。
「はは……」
桜木くんは人差し指で頬をぽりぽりと掻いて、苦笑いを浮かべた。
ダーツが上手い、酒に強いと誉めそやす言葉に応じる赤井さんにまた放置された。チョコレートを口に放り込んで赤井さんに凭れかかると、体に腕を回される。守ってくれているのだとわかって安堵して、同時に、後ろめたさも感じてしまう。それを面に出すことだけは、絶対にしないけれど。
≪まったく、加減ってものを知らないな……。夜風に当たりながら帰るとするか≫
≪チセちゃんもおねむの時間だね。寝かせてやらないんだろうけど!≫
けらけらと笑う人たちには何も反応せず、赤井さんから預かった財布からお金を出して会計をした。
桜木くんに手を振ってお店を出て、ネオン街を抜ける。
「ねぇ、公衆電話ってこの近くにある?」
あまりベルモットを待たせたくはない。
聡い赤井さんはすぐに合点がいったようすだった。
「あぁ、あの魔女に連絡か。……そうだな、少し遠回りだが」
「大丈夫」
連れて行ってもらった電話ボックスに入り、硬貨を投入してベルモットに電話をかけた。
『ハァイ、どちらさま?』
数日前にも聞いた艶っぽい声が、受話器越しに届いた。
夜遅かったけれど、特に怒っているようすもない。
「穂純千歳よ。ターゲットの溜まり場の確認が取れたわ。バーテンとしてなら潜入できる」
『いい子ね、キティ。情報を頂戴』
お店の名前、マスターが店の治安が悪くなって学生のバイトを休ませて困っているという状況、彼が潜るために必要になりそうな情報はすべて伝えた。
ベルモットはすぐにバーボンを潜り込ませる準備をするようだった。
電話を終えて、受話器を置きながら細い溜め息をつく。
電話ボックスから出て、歩調を合わせてくれる赤井さんと並んでセーフハウスまでの道を歩いた。
「……君は随分とポーカーフェイスが上手いな」
赤井さんの苦々しげな声に首を傾げる。
今こうして潜入している現状、わたしが感情を面に出さないということにはメリットしか感じないはずなのに。
「困る?」
「まさか。君が優秀過ぎて困っているんだ」
赤井さんはオーバーに肩を竦めた。
別に潜入のためにポーカーフェイスを身につけたわけじゃない。
「……少しでも理解している素振りを見せてしまったら、おしまい。そういうときもあったから」
だから、わたしを守るために嘘のつき方を教えてくれた。動揺を面に出さない技術を教えてくれた。
あのときは確かに守られていたのだと、身を守る術を自分で持てるようにしてくれていたのだと信じられた。それを思い出してしまうと、心臓を掴まれるような心地がした。
自衛の術を潜入の武器に使って、降谷さんの優しさも無視して、わたしは一体何をしているのか。
自嘲の言葉はいくらでも浮かんでくる。だけど、やめるという選択肢は浮かんだそばから消されていく。
「……あまり考え過ぎるな。いずれ彼にも会うことになる。辛そうな顔をして見せれば、彼は無理をしてでも君を連れ出すぞ」
「それは望まない」
「だろうな。俺を悪者にでもすればいいさ。元々彼には殺したいほど憎まれているんでな。今更殺す理由がひとつふたつ増えたところでという話だ」
「そう言うんならそうさせてもらうけど」
慰めるように頭を撫でる手はどこか不器用で、でも優しさを確かに感じられた。
縋る先をなくした今、それは甘い毒のよう。
いっそ心まで縋ってしまいたい気持ちに蓋をした。
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