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一度自宅のあるマンションに帰って、郵便物を確認した。ポストにあった封筒とチラシをまとめて部屋に持っていき、チラシは捨てて仕事に関係するものをバッグにしまった。
ついでにキッチンから賞味期限が近づいているものを回収して、折り畳める小さなエコバッグに詰めた。
それから近くのデパートに寄り、ケーキを買った。甘い物を選ぶのはいつだって楽しい。
米花駅前からタクシーで帰る頃にはすっかり日が高くなっていて、コートを着ていると少し暑いと感じるほどだ。冬も終わりかなぁと思いつつ、指定したコンビニでタクシーから降りた。
セーフハウスに帰ると有希子さんは昼食の準備をしていて、赤井さんがそれを教わりながら手伝っていた。
「千歳ちゃん、おかえりなさい」
「ただ今戻りました。有希子さん、家から賞味期限の近い食材を持ってきたんですけど……」
「あら、じゃあ夕飯にでも使い切っちゃうわね」
「すみません」
「良いのよ、捨てるのも勿体ないものね」
アシスタントよろしくキッチンから出てきた赤井さんに食材を渡した。
「ケーキも買ってきましたよ」
白い紙の箱を見せると、有希子さんは目に見えてうれしそうにした。
「おやつが楽しみね! 冷蔵庫に入れなくちゃ。秀ちゃん、それもお願い」
「はい」
赤井さんが冷蔵庫に箱をしまうのを見てから、キッチンの調理台に目を向けた。
お昼は焼きうどんらしい。日の当たらないところはまだまだ寒いから、ちょうどいい。
部屋に荷物を置いてから、洗面所で手を洗った。
テーブルを拭いて、盛りつけられたうどんやコップを運び、食事の準備を整える。
赤井さんが中断していた片付けも終わり、三人で手を合わせて料理に手をつけた。
「なんだか実家にいる気分です」
「そう? それなら良かった。ここでくらいはリラックスしなくちゃね」
食べ終えてから後片付けはさせてもらって、午後は有希子さんに呼ばれておやつを食べて休憩をすることもあったけれど、家事や仕事をして過ごした。
夕方になるとコナンくんが帰ってきて、コーヒーとケーキを食べつつ宿題をし始めた。こうしているとコーヒーを飲んでいる以外は小学生そのものだ。もはや頭が良いことは周知の事実だからか、わざと間違えることもなく解いている。
夕食を作る有希子さんの手伝いをして、赤井さんと一緒に早めに食べてから着替えて化粧を直した。
「……慣れているな」
赤井さんは有希子さんに見守られながらもたもたと化粧をしていた。
"沖矢昴"に変装するのには慣れたけれど、"池田一"になるにはまた勝手が違って慣れないのだろう。
「有希子さんにコツも教えてもらったもの」
「そのうち変装も覚えそうだな」
「どうかしら」
別に覚える気はないけれど、必要に迫られる可能性はあるかもしれない。……実現してほしくない。
コナンくんは食事をしながら呆れたように笑っていた。
赤井さんも準備を終えて、揃ってコートを羽織ってブーツを履いた。
有希子さんとコナンくんに見送られ、マンションの部屋を出る。
ネオン街に入り、手前まで歩調を合わせてくれた赤井さんのコートの裾を掴み、小走りで追いかけた。
昨日の夜も行ったバーに入ると、ターゲットに出迎えられた。桜木くんも相変わらず通訳に使われているようで、暇潰しにメンバーのダーツの相手をしていた。
≪ハジメ、チセ。待ってたぜ≫
さっそく名前で呼ばれている。わたしは姓を名乗っていないからともかくとして、赤井さんが名前で呼ばれているのは進歩なのではないだろうか。彼ら相手にイタリアの一般的なビジネスマナーを当て嵌めてもいいものかどうかは迷うところだけれど。
≪何かあったのか?≫
赤井さんはわたしの肩を叩いて、カウンターを指差した。"注文をしてこい"と言いたいのだと察して、マスターに近づく。
「こんばんは」
「お嬢さん、こんばんは」
カウンターに両手を置いて、背伸びをしてお酒の並ぶ棚を眺めた。
赤井さんはバーボン一択なのだろうけれど、自分で飲むものはちょっと悩む。
「お嬢さんはミルクを使った甘いカクテルがよろしいのですか?」
「うん」
「でしたら……そうですね、モーツァルトミルクはいかがでしょう。チョコレートリキュールをミルクで割るんです」
わたしはマスターに特に警戒されていない。
親切に勧めてくれたカクテルも魅力的だ。
「! それがいいな。あと、あの人にバーボン」
「かしこまりました。軽食はいかがいたしますか?」
「昨日のチョコレート、おいしかった」
「ではそちらをおつけしましょう」
興味を持ったフリをして、カウンターの中を覗き込む。
不自然な素振りがないのを確認しながら、カクテルが出来上がるのを待った。
出来上がったカクテルとバーボンのグラス、それからチョコレートが入った器を持って、赤井さんのそばに行く。持ってきた物をテーブルに置くと、腰を抱き寄せられ、密着して座らされた。大人しくその腕の中に収まりつつ、グラスに手を伸ばす。
≪明後日の昼、品物をロッカーに入れることになったんだ≫
≪ホォー……早くないか? まだ一週間も先だろう≫
赤井さんは煙草に火をつけながら、リーダーに視線を送った。
≪今の隠し場所が暴かれちまいそうなんだよ。ケース三つよりも、鍵一つの方が守りやすいだろ?≫
≪まぁな。その作業に手は要るか?≫
≪離れた場所からの警護を頼むぜ≫
≪わかった≫
赤井さんは明後日のお昼は出かけるのか。
できればそのときに使われるケースを知りたいところだ。すり替えるなら、可能な限り見た目は近づけたい。これに関しては赤井さんに任せる他ない。
チョコレートの味がするカクテルをちびちびと飲みながら、周囲の会話に耳を傾けた。
聞いている限りでは、特に赤井さんやわたしへの不信は感じられない。これなら、アルバイト一人増えたところで疑われるようなことはないだろうか。
明後日の打ち合わせをし終えると、赤井さんがダーツ勝負を仕掛けられる。昨日はカウンター席から中央に当てていたのだし、どれだけできるのかという興味もあるのだろう。
≪勝った方がテキーラを飲んでいく。どうだ?≫
≪いいだろう≫
ルールがえげつない。負けた方が罰ゲームで飲むのではなく、勝った方がハンデをつけるために飲むらしい。
「ちせ、ここで大人しくできるか。ダーツをする」
"話をわかっていない"わたしのために、赤井さんが声をかけてくれた。
「うん」
「好きなのを飲んでいい」
「わかった」
赤井さんは桜木くんに声をかけて、"近くにいてやってくれ"と伝える。
今日は聞き出すべき情報も特にない。何を話そうかと、ぼんやり考えた。
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