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 もぞもぞと寝返りを打って、こうじゃないとまた体を動かして、溜め息をつく。
 ――眠れない。
 初めてのホテルで寝るのなんて慣れているし、いま寝ているのは家にあるのとそう変わらない柔らかさのベッドだ。
 休まなくちゃ、と考えれば考えるほど、目が冴えていく。
 体を起こして、額を押さえながら溜め息をついた。
 急遽用意したセーフハウスのはずなのに、有希子さんがあれこれと気を利かせてくれて部屋には加湿器が置いてある。エアコンもあって赤井さんに勧められるがままそれらをつけているので、部屋の中は快適なはずなのに。どうして眠れないのだろう。
 部屋の入り口のドアの下の隙間からは、リビングの明かりが入ってきている。赤井さんはまだ起きているようだ。
 ふと、買いっぱなしになっていた煙草の存在を思い出した。赤井さんにも渡しそびれている。けれどもこんな夜中に渡しに行くのもなんだか変な気がした。
 ベッドから降りて手探りで窓に近づいてカーテンを開け、月の明かりを頼りにキャリーバッグの上に載せた紙袋を開けた。小さな箱とライターを取り出し、先日出かけたついでにと買っていた携帯灰皿を持って、窓の近くに戻る。
 窓を開けると、ひんやりとした空気が頬や首筋を撫でた。小さく身震いしながら、煙草を一本取り出して口に咥え、ライターの火を近づける。
 火がつくと煙草の苦味と紅茶の香りが喉を通り抜けた。煙で肺を満たすように息を吸い込んで、それからゆっくりと吐き出す。
 煙草を吸った直後は多少酸素不足になるらしいし、それで眠くなれはしないだろうか。そんな、小さな期待を抱いていた。
 かちゃ、と優しくドアを開けられる音が聞こえた。窓枠に頬杖をついて、煙草を咥え息を吸う。

「煙草を吸うようになったのか?」

 赤井さんの声が後ろから投げかけられて、煙草を口から遠ざけ息を吐き出した。

「……ぼーっとしたくて」
「アークロイヤルか。甘ったるくないのか」
「これぐらいが好きよ。赤井さんのは苦すぎ」
「フ、お子様だな」

 からかうように笑われた。それでも優しさの詰まった声に、嫌な気持ちは湧かない。

「お子様で結構。……何か用事?」
「物音がしたから気になってな。眠れないのか」

 赤井さんは部屋の入口に立ったまま問いかけてきた。
 煙草の先に溜まった灰を灰皿に落として、また煙を吸い込む。

「……眠れない」

 紫煙とともに言葉を吐き零すと、赤井さんは"そうか"と静かに相槌を打った。
 部屋に入ってくるわけではなく、かといってリビングに戻る様子もなく。

「以前の潜入捜査では眠れていたのか? 敵地のど真ん中だっただろう」

 優しさを含んだ低い声が、問いを重ねる。

「あのときは平気だった。呼べば来てくれるところに白河さんがいたし……降谷さんも、毎日通信で話してくれたから」

 口にして、はっとする。

「俺ではご不満かな? 呼んでくれればすぐに駆けつけるし、眠くなるまでの話し相手をすることも吝かではないんだが」

 振り返ると、リビングの明かりに顔の半分を照らされた赤井さんが、苦く微笑んでいた。
 あのときよりずっと安全な場所で、降谷さんと同じぐらい信頼できる赤井さんが、そばにいる。それでも安心しきれない理由は、自分でわかっていた。
 冷たい窓枠を握って、赤井さんから視線を逸らす。

「ごめんなさい……。赤井さんの実力を、信じていないっていうわけじゃなくて。ただ……」

 その先は、ただのわたしの感情の問題だ。
 赤井さんにぶつけていいものでもない。言葉を続けていいものかと悩んで口籠ってしまった。

「――ずっと信じてきたものに裏切られた。頭ではわかっていたが、恨めしく思ってしまう。"また"そうなるのではないかと不安……か?」

 落ち着きのある低い声が、心の弱っている部分を抉っていくような心地がした。
 自分の中でもうまく言語化できなかった感情を、赤井さんは簡単に言葉にしてしまう。
 それでも、自分を信じ切れない相手に対して、赤井さんの表情は穏やかだった。

「無理もないさ。君は彼を一番に信じている。事情が特殊過ぎるがゆえに、盲目的にな。そんな相手に突き放されて、そんな男のために俺に弄ばれている振りをして……痛々しいと、俺は思う。やめたいとは思わないのか」

 首を横に振った。やめるなんて選択肢は、わたしの中でとっくに消した。
 わたしを守って大事にしてくれた、あの温かい手が温かいままであってくれるなら、どれだけ苦しむことになるとしても後悔はしないと確信していた。

「やめない。後戻りはできないってわかっていて、わたしはあの場所に行ったの。きっと、あの場所で彼にも会うだろうけれど……それでも、わたしは"ちせ"よ。あなたのペット。……あなたがいなければ、なんにもできないの」

 碌に吸えなかった煙草は、細いタイプだったこともあってすぐに終わりが来た。
 灰皿の底に火を押しつけて、蓋を閉じる。
 赤井さんは口を閉ざしたまま、窓を閉めてキャリーバッグに近づくわたしをじっと見ていた。
 煙草屋のおじいさんが丁寧にラッピングしてくれたカートンの煙草を持って、自分の物はハンドバッグの中に押し込む。
 部屋の入り口に立つ赤井さんの手に、煙草を持たせた。

「赤井さん、お願い……わたしを守って」

 無茶苦茶なお願いだとわかっている。本当はむやみやたらと外を歩かせてはいけない人で、わたしのわがままと、それが端を発したエドの行動で動かざるを得なくなったのだということも理解している。
 だけど、降谷さんと同じぐらい信頼できて、頼っても大丈夫だと思える人は、もう赤井さんしかいなかった。
 リビングの明かりが引き起こす逆光で、赤井さんの表情は見えない。煙草の箱を小脇に抱えて、ぽんと頭を撫でられたのだけはわかった。

「君はとんだ魔性だな……。まったく、ようやく素直になってくれたかと思えば、素直過ぎるにも程がある」

 苦笑交じりの言葉に、きっとこちらからでは見えない顔に声色どおりの苦笑いを浮かべているのだろうと想像がついた。
 悪態めいているけれど、声色は相変わらず優しいから、怒ってはいないのだろう。

「……姫が、君に関する話でだけは饒舌になってくれる。あの子にはもう、慕う相手を裏社会の柵で喪う辛さを味わって欲しくない。それで理由は十分だろう? 俺にとっても、君にとっても」

 赤井さんは、"哀ちゃんを悲しませないこと"を理由にしてくれた。わたしを大事にしてくれる言葉より、ずっと安心できる。
 彼が優しいことは知っている、きっとわたしのことだって取りこぼすまいと思ってくれているとわかっている。
 それでも、わたしが信じられるようにと、優しい言葉を選んでくれた。

「君を守ってやりたいと思っていることは、これからの働きで伝えていくことにした。ひとまずは、この煙草以上の働きをして御覧に入れよう」

 包装を解いてもいないのに、中身が煙草だと言い当ててきた。よほどその大きさの箱に触り慣れているんだろうなと考えるとなんだかおかしくて、つい笑ってしまった。

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