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 隣に座った彼は、桜木隼斗と名乗った。高校二年生の由香ちゃんという妹を持つ、大学三年生の男の子。
 想像したとおり、アルバイト先でロシア語を話せることを知られて通訳として使われることになり、その間、妹を人質に取られているらしい。騒ぎにならないように二人とも学校には行かせてもらえている。けれど本人も妹も、いま赤井さんが相手をしているグループのメンバーや、彼らの取引相手となる反社会的組織の下っ端に監視されている。誰かに助けを求めようにも、それが難しい。
 一歩間違えれば自分もこうなっていたかもしれない。人質になるのは自分自身の命だという違いはあったかもしれないけれど。
 僅かに背筋に走る冷たいものを無視して、ガラスの器からチョコレートを取り出して包装紙を解き口に放り込んだ。

「家族がだいじ。やさしいね」
「優しくたって、助けてやれないんじゃだめだ」

 口の中に残るチョコレートの名残りを楽しみながら、ミルクティーに似たカクテルを一口飲んだ。
 自嘲気味に吐き捨てる桜木くんに、何も言葉をかけることはできない。

「……君は、どうしてあの人と一緒にいるんだ? 夜、眠れているようには……見えないけど」
「守ってくれる。お腹はすかない。眠れないけど、気持ちいいことしてくれる。それじゃだめ?」
「"良い"とは言えないね」

 桜木くんは苦笑いを浮かべた。
 生活の面倒を見てもらう代わりに、体を差し出している。これだけ聞けば、単なる愛玩人形だ。
 赤井さんは自分が只者ではないことを相手の意識に刷り込んだうえで、"取引の噂を聞いた"ということから始めて言葉巧みに自分を売り込みつつ、取引に噛ませてほしいと話をしていた。"ガキのお使いレベルの仕事しかなくて退屈していたんだ"と付け足して、彼らを、彼らの仕事を買っているのだとも伝えた。

「ところで、ちせちゃん……だっけ? ロシア語わかるの?」
「わかんない。なんで?」
「いや、妹のこととか、どうしてわかったのかと……」
「何の話? あの人の妹のこと?」
「えっ」

 "俺の勘違いで投げてんじゃん、あの人が止めてくれて良かった"。ぶつぶつと一人で繰り返す桜木くんの焦ったり安堵したりと忙しない顔を横目で見つつ、チョコレートをまた食べた。
 彼には罪悪感を植えつけてしまって申し訳ないと思うけれど、日本語以外の言語が理解できると思われてはならないのだ。
 とりあえず、風見に彼について調べてもらって、保護の必要があるかどうかも考えてもらわないと。大学で外国語を履修したばかりにこんな目に遭わされるだなんて、とんだ不運の持ち主だ。
 彼の身の上話を聞いているうちに、赤井さんの方も話がついた。"理解できていない"という設定だから、反応もできないけれど。

「ちせ、それ全部持ってこい」

 声をかけられて、ようやく反応ができる。
 やっぱり足が床につかない高さのスツールから飛び降りて、グラスを二つとガラスの器を手に取った。
 ソファに座る赤井さんに近づきその正面に持ってきた物を置くと、隣に座らされる。
 すっかり小さくなった氷が、ちゃぷりと音を立てた。

「もう水割りだよ」
「そのようだ」

 赤井さんはグラスの中身を一息で飲み干して、マスターに同じ物を注文した。

≪そいつは足手纏いじゃねぇのか?≫
≪簡単なおつかいには重宝する。可愛いだろう?≫

 頭を撫でられて、とりあえず擦り寄ってみた。
 近くに座っていたメンバーの一人が、犬や猫を見るような興味からわたしに触ろうと手を伸ばしてくる。
 その手は、赤井さんが遮ってくれた。

≪噛みつく程度の反抗心は持っているぞ。気安く触らない方がいい≫
≪そうは見えねぇけどなぁ≫
≪随分前に不良少女なりのプライドとやらをへし折ってやったからな。もう俺に反抗するのは諦めたのさ。お仕置きが怖くて甘噛みすらできないらしい≫

 喉の奥で低く笑いながら、利き手である左手の人差し指を唇に押しつけてくる。
 唇を引き結んでみると、からかいを含んだ笑いが周囲から飛んできた。
 あぁ、こういう見定められるような視線は苦手だ。赤井さんのコートを握る手が震える。
 赤井さんはチョコレートを手に取ると、包装紙を剥がしてわたしの口に押し込んできた。

≪気に入って飼ってるみたいだな、手ぇ出すのはやめとけ≫

 別の男が、興味津々で身を乗り出してきていた男を窘めた。
 わたしに対するメンバーの興味が落ち着くと、新しく加わった"池田一"に向けて、取引の説明がされた。
 取引相手と、取引されるのがアタッシュケース三つ分の薬物だという点については、エドとベルモットの情報通りだった。取引の前に薬物を駅の線路下、監視カメラの死角となる場所にあるコインロッカーの中に入れておき、取引相手とはお金とそのコインロッカーの鍵とを交換する。相手がケースの中身を確認したら、それで取引は終わり。
 人目につかずに行動する必要があるのは、ケースをコインロッカーに入れるとき。それ以外は、うっかり鍵を取引相手に奪われないように守らなければならない。それと、そのコインロッカーが見えるアパートの部屋から、二人ずつ交代で薬物を仕舞ったロッカーに誰も近づかないか見張ることになっているらしい。
 取引に使う大きなロッカーの鍵は、既にリーダーが持っている。
 必要な情報は、ある程度集まっただろうか。ちびちびと減らしていたティフィン・ミルクを飲み終えて、テーブルにグラスを置く。赤井さんも、グラスの中のバーボンを流し込むようにして飲んだ。
 グラスを置いても、次の注文はしない。
 口元を手で隠して意図的に欠伸をすると、赤井さんから財布を手渡された。

「ちせ、求人を出していないかだけ聞いてこい」
「わかった」

 囁き声に返事をして、ソファから立ち上がった。
 カウンターの端に置いてあるレジの前に立つと、マスターが会計をしてくれる。

「ねぇ、ここは一人でやってるの?」
「今は。前は学生をアルバイトで雇っていたんですが、店がこの有様でしょう。学生ですから、就活に響いても可哀想だからとしばらくお休みにしてもらっているんです」
「じゃあ、きゅうじんっていうの出してる?」

 適度に言葉がわからないことを示しながら問いかけると、マスターは苦笑した。

「さすがにできませんよ。とはいえ、伝手があれば頼りたいところです。こんな状況で働いてくれる方がいればですがね。時給は弾みます。まさか貴女が働く、なんて仰いませんよね?」
「うん、あの人の知り合い、働くところ探してるんだって。ちょっとは怖くても平気」
「では、"ここで働きたい"と声をかけていただければ、面接をします」
「ありがと。また来る、と思う」
「お気をつけて」

 マスターはどこかわたしに同情的で、優しく接してくれる。思いの外、"ちせ"という人間の置かれた状況は同情を誘いやすいらしい。桜木くんも、あっさり心を開いてくれた。頭の悪そうなわたしに何を言っても、あまり理解しないと思われているのだろう。
 お店の入り口で待っている赤井さんに追いついて、ソファ席に座る男女に会釈をした。さっさと歩き出す背を小走りで追いかけて、ポケットに手を突っ込んで曲がった腕に手を添える。お店のドアが閉まって、ほっと息を吐いた。

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