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 わたしと哀ちゃんが食べられなかった分を引き受けるという体で、沖矢さんは結構な量を食べていた。相変わらずしっかり食べているらしい。
 哀ちゃんはデザートにご満悦な様子で、沖矢さんの前だというのににこにこしている。指摘すると仏頂面に戻ってしまいそうなので、心の中に仕舞った。
 ふと壁にかけられた時計を見て、一度帰って着替えなければとぼんやり考えると、気がついた沖矢さんが"そろそろ出ましょうか"と雑談を切り上げさせてくれた。
 大きな手がスマートに伝票を攫っていくのが目に入り、慌てて立ち上がる。

「待って、沖矢しゃ……っ」

 咄嗟に自分の口を塞いだ。一瞬時が止まったような気がした。
 突き刺さってくる三人の視線に居た堪れなくなり、視線を逸らす。

「……噛んだわね」
「噛んだのう」
「噛みましたね」

 追い打ちのせいで熱の集まる顔を両手で覆い、視線を遮る。

「呼びにくいんだもの、仕方ないじゃない……!」

 今まで噛まないように気をつけてきたというのに、ここにきて噛んでしまうとは。
 哀ちゃんにぽんぽんと背中を叩かれ、無言で慰められた。

「名前で呼んでくれても構いませんよ。僕もそうしていますし」

 顔を覆っていた手を外して、沖矢さんの顔を見上げた。
 名前で呼んでもいい、ということはつまり。

「昴さん……?」
「えぇ、"沖矢"よりは呼びやすいでしょう?」

 どうにも笑いを堪えきれない様子で言われる。
 しかし、呼びやすいのは事実である。

「……そうする。そうじゃなくて、伝票。わたしも出すから見せて」
「おや、はぐらかされてはくれませんか」
「わたしはどれだけ単純だと思われてるの?」

 昴さんの手首を掴んで、伝票を見る。
 お札に収まる範囲で切り捨てて半分渡すと、昴さんは渋々といったようすで受け取ってくれた。
 レジに向かった昴さんを置いて、ひとまずお店の外に出る。

「何か用事?」

 入り口の脇に立ったところで、哀ちゃんがこちらを見上げて問いかけてきた。

「え?」
「昴さん、時計を見た千歳さんを見て切り上げたみたいだったから」
「……よく見てるのね。人と待ち合わせしてるのよ」
「あら、デートかしら」
「そんなに楽しいものじゃないわよ」

 くすくすと笑いながら答えると、哀ちゃんは"どうだか"と肩を竦めて微笑んだ。
 昴さんが会計を終えてお店の外に出てきて、博士に"二人に出させてしまって良かったのか"と確認されてしまった。車を出してもらったし、哀ちゃんも子どもなのだ。そうでなくとも、昴さんに扮する赤井さんには博士に対する恩がある。理由を並べ立ててしまえば、博士はあっさりと丸め込まれてくれた。
 博士の車でマンションの前まで送ってもらい、一度部屋に帰った。行きつけのバーに見合うワンピースに着替えて、長袖のボレロとコートを羽織る。メイクもパール入りの化粧品を使って、唇にはグロスを塗った。
 自分しかいない部屋は静かで、部屋の寒さも相俟って急に心細くなる。
 赤井さんが拠り所を失ったわたしに気を遣ってくれたのだと今更自覚して、やっぱりわたし一人では何もできないのだと自分に呆れてしまった。
 それでも、藤波さんとはわたし一人で対峙しなければならない。
 帰ってくる頃には部屋が温まるようにエアコンのタイマーを設定して、もう一度鏡の前に立った。
 笑みを浮かべて、鏡で自分がきちんと笑えていることを確認する。
 嘘をつくことに対する罪悪感を捨てること。白河さんの教えを、頭の中で反芻する。

「……大丈夫」

 いつもより少し大きめのバッグの中にUSBメモリを入れた袋がきちんと入っていることを確認して、ブーツを履いて家を出た。


********************


「カルーア・ベリーとガトーショコラを、藤波さんにお願いできる?」

 バーに着くなり注文をすると、馴染みのバーテンダーがにこりと笑って頷いてくれた。

「近頃あまりお見えにならなかったので気になっていたんですよ」
「ごめんなさいね、いろいろ立て込んでいて」

 飲み物を準備しながら振られる話に応じる。

「とんでもない。落ち着いたらまた来てくださると嬉しいです」
「えぇ、もちろんよ」

 準備が整い、藤波さんが待つ部屋の前までトレーを運んでもらって、ドアの前で受け取って一階に戻ってもらい、ドアをノックした。
 すぐにドアが開けられ、出迎えてくれた藤波さんがトレーを受け取ってくれた。
 部屋の中に入り、促されるままソファに座る。
 藤波さんもローテーブルの上にトレーを置くと、わたしの正面に座って手近なところに置いていたロックグラスを手に取った。

「ここのお酒、美味しいね。降谷さんが気に入るのも納得だよ」
「零さんがここを気に入ってるの?」

 降谷さんの決断を知っているのは風見だけ。
 それなら、わたしも"そう"振る舞わなければならない。
 "零さん"と呼ぶことにどことなく気まずさを覚えながら、話に応じた。

「うん、プライベートでも飲みに来るって聞いたことがあるよ」
「そうなの。確かに、初めて話した時も随分満足げに飲んでいたわ」
「そっか。……本題に、入ってもいいかな」

 カルーア・ベリーを一口飲み、喉を潤して藤波さんの目を見る。

「どうぞ」

 促すと、藤波さんは穏やかに笑みながら口を開いた。

「近々イタリアのマフィア幹部の子供たちが、日本のある反社会的組織と取引をすることがわかっているんだけど。穂純さん、君はこれについて何か知ってるよね」
「少しなら。エドから忠告されたの、危ない人間の集まりだから、何を聞いても関わらないようにって」

 これは嘘ではない。嘘をつくことに罪悪感は覚えないこと。でも、できるだけ真実を混ぜること。

「それ以上のことは?」

 更に可能なら、嘘をつかずに相手に誤解させること。

「何も」

 言えないわ、と続くところを、あえて口にせずに言葉を切った。
 これで誤解してくれるだろう。――それ以上のことは何も"知らない"、と。元よりあちらが"知っているか"と問いかけてきたこと。答えとして何ら不自然ではない。
 藤波さんはわたしの真意を探るようにじっと見てきた。嘘を言っていないという自信が、視線を逸らさずにいさせてくれる。

「……そうだよね」

 真剣な表情を緩めた藤波さんは、グラスの中身を呷った。

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