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 二人の和やかながらも刺々しいやりとりが終わりほっと息をつくと、ヘレナに"ちょっと緊張したわね"とドイツ語で囁かれる。わかっていて気を紛らわせるような話題を振ってくれていたらしい。

≪さて、当日の話をしようか。これは先ほど宇都宮君から回収してきた招待状だ。名前は書いていないから、好きな人間に持たせるといい≫

 背広の内ポケットから取り出された招待状が、エドから安室さんの手に渡った。
 安室さんはそれを足元の鞄にしまう。

≪ありがとうございます。二人、男女を潜らせます。現場で対応するのは僕とその二人。二人には、遠くからドイツ語がわかる人間がフォローに入ります≫
≪ドイツ語が堪能だというその本人は現場には来ないのかね≫
≪生憎と内勤の、潜入には向かないタイプでして。会場を調べたところ、狙撃の可能性も視野に入れるべきと判断したのでスナイパーが潜ります。スナイパーの思考はスナイパーが読む。そして、万が一の近接戦闘のサポートに、女性捜査官が入ります≫
≪なるほど。いいだろう≫
≪僕へのドイツ語のフォローは、穂純さん、あなたにお願いします≫
≪承知したわ≫

 それから見取り図や会場の写真を並べて、細かい人員の配置や当日の振る舞い方の打ち合わせがされた。
 とはいえ、素人のわたしはいつもどおりエドのそばで通訳をして、危険の前触れの合図を拾ったら、それを安室さんかエドに伝えればいいという話だった。
 警察に協力するのは、本当に正解だっただろうか。
 "信頼できない"と適当に誤魔化して、エドが信頼している人物にお願いすればよかったんじゃないか。けれど、下手に逃げればより疑われるのも簡単に予想がついて。
 打算もあった。――彼ならば、わたしの秘密すら解き明かしてくれるのではないか、なんて。

≪チトセ、緊張しているの?≫

 ヘレナに話しかけられて、はっとした。
 いけない、考え事なんて。

≪え? あぁ……ごめんなさい。えぇ、少し考え事をしてしまうぐらいには≫
≪あらあらごめんなさい。あなたは頼りがいがあるから、こういうことには慣れていないんだってこと、つい忘れてしまうわ≫
≪本当ですね。緊張しなくても大丈夫ですよ≫

 緊張しているのは、事実だった。
 フランツから光莉ちゃんを奪い返すのだって、背後に警察がいると理解している状況でなければできなかっただろう。
 ヘレナはエドの妻である以上こういったことは何度も経験している。わたしだけが、足手まといだ。
 けれど、引くわけにはいかない。エドの手助けはしたいし、ここで手を引いたとして疑われる理由になりかねないのはわたしにもわかる。

≪大丈夫よ、警察官が近くにいるんだもの≫

 エドがわたしを大切にしてくれていることはわかったはずだ。今後も何か協力を求めるパイプになり得る人物の信頼を得るためにも、わたしを見捨てるという選択はしないだろう。
 ちらりとエドを見遣ると、頷かれる。

≪今から事情に精通して対応してくれる通訳者を探すのには骨が折れる。それに私はチトセをとても気に入っていてね≫
≪えぇ、それは理解しています。何より彼女は日本国民。犯罪を防ぐためにあなた方を守るのは当然ですが、国民を――彼女を守るのもまた当然のことです≫

 その言葉には、彼の警察官としての誇りと国民を守りたいという強い意志が色濃く滲んでいた。
 エドはフ、と詰めていたような息を緩めて、笑った。

≪結構。ヘレナ、チトセと買い物に行っておいで。彼ともう少し打ち合わせをしたい≫
≪わかったわ。チトセ、タクシーを手配してくれる? こちらでお金は出すから。一緒にお昼をつくりましょう。嬉しいわ、子どもがいないから、娘やお嫁さんみたいな女の子と一緒に料理をつくるのが夢だったの≫
≪え? えぇ……わかったわ≫

 うきうきした様子のヘレナに促され、タクシー会社に電話をした。そろそろ車を買おうか、なんて悩みもする。移動には便利なのだ。特に電車を使って、また知らない場所に行ってしまうかもしれない可能性がある今は。タクシーやらレンタカーやら、頻繁に使うとお金がかかるばかりだというのもある。
 そんなことを頭の片隅で考えながら買い物をして、時間もあったので、アイントップフというドイツの家庭料理であるスープの作り方を教えてもらった。
 二人が何を話しているのか気になったけれど、エドはわたしが何か不利になるようなことは言わないだろう。

 クラウセヴィッツ夫妻にも宇都宮夫妻にも、わたしが大抵の言語は操れること、それを伏せておきたいこと、経歴に関しては説明がつかないことを伝えてある。そのうえで今後も依頼をしてくれるのなら誠意を持って応えるし、ある程度の融通は利かせるつもりがあることも伝えた。
 エドと宇都宮さん以外からの依頼については、日本語と英語、ドイツ語、フランス語に限って受注している状態だ。四ヶ国語程度なら、違和感もないだろうという判断で。
 本人たちからは、相変わらず取引文書の翻訳や商談の通訳、ヘレナや光莉ちゃんの遊び相手を依頼される。終いには今回のような警察からの接触について心配してくれている。
 人が好過ぎるのではないかとも思うけれど、それでも大切な奥さんや子どもを預けてくれるのだから、その信頼は本物なのだろう。だから、わたしも応えたいと思っている。

≪ヘレナ、エドはわたしを本当に大切にしてくれているのね≫

 野菜を切りながら言葉にしたら、ヘレナはぱっとこちらを向いて微笑んだ。

≪それはもちろんよ! あなたのことは調べてもわからないけれど……調べたことだけが事実じゃないわ。あなたがこんなにも優しい女の子だってことは、この世界に存在するどの資料にも書かれていない。ドイツには、たしか日本にも、こんな諺があるわね。"百聞は一見に如かず"。だからエドも私も、チトセのことが大好きなの。いっそ娘にしてしまいたいくらいにね≫

 お茶目にウインクをするヘレナに、つい顔が綻んだ。
 がちゃりと書斎のドアが開いて、エドと安室さんが出てきた。

≪ヘレナ、チトセ、昼食はできたかい?≫
≪あら、エドったら≫
≪美味しそうなにおいがしたものだから。ミスター・フルヤ、君もどうかね?≫
≪……いただきます≫

 食べてくれるのか。しかも"降谷"と呼ばれるまでに至ったのか。エドも相当なやり手だ。わたしとヘレナが買い物に料理にと忙しなく動き回っている間に、腹の内を引きずり出したらしい。
 食事に誘ったことには、本当にこちらを信頼しているのか試す意図がエドにはあったのかもしれない。
 結局安室さんは少し迷って、頷いた。
 取り出した食器は"しばらく使っていなかったから"とすべて水洗いして、布巾で拭った。
 手伝ってもらえないかと降谷さんに声をかけ、テーブルを拭いて、わたしとヘレナが盛りつけたものをダイニングテーブルに持って行って配膳してもらう。
 じっとわたしの手元を観察していたから、彼を害する意思がないことを伝えるには十分だろう。それもわたしにできる限りのことで、だけれど。

「無理して食べなくてもいいわよ」

 料理を手渡しながら伝えると、首を横に振られた。

「いえ、あなたの気遣いも無駄になってしまう」
「気にしなくていいのに。……味は保証するわ」
「それは楽しみだ」

 目を細めて笑う安室さんは、結局同じ鍋やフライパンから取り分け、自分で配膳したスープと炒め物にだけ手をつけていた。

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