15
「……掃除はしたし、化粧も完璧」
化粧の手順には慣れたけれど、毎朝見る自分の顔との違いには未だに慣れない。
また一言隠した自分に謝って、ぼんやりしていた思考をインターフォンの音で引き戻した。
リビングにあるインターフォンと繋がったモニターを見て、来訪者が降谷さん――いや、今は安室さんの方がいいか――であることを確認する。
ボタンを押してエントランスのドアを開錠した。
背後をちらりと振り返りながら入ってくるあたり、手慣れているなと思う。不審者を入れたくないのは事実なので、ありがたい配慮だ。
三分もしないうちに、部屋の入り口のドアがノックされた。
念のためチェーンをかけたままドアを開け、すぐ外にいるのが安室さんだとわかってようやくチェーンも外した。
部屋に入ってもらって扉を閉め、靴を脱いで上がってもらう。奥のリビングへは通さずに、仕事部屋にしている部屋に通した。
部屋の中には、鍵のかかる棚と普通の本棚が一つずつ。鍵のかかる方は顧客情報や仕掛中の仕事、それと帳簿を入れていて、普通の本棚にはこれまでに買った本を並べている。それから資料をたくさん広げられるアンティークなワークデスクとチェア、滅多にないけれど自宅に客を招いて打ち合わせをするためのローテーブルとソファ。ローテーブルの下には水色の絨毯を敷いてある。それから腰の高さ程度の小さな食器棚。上にはコーヒーメーカーとティーバッグ、お湯の入ったポットを置いている。食器棚には来客があった時用のカップとソーサー、スティックシュガーやミルク、そしてお茶請けとそれを載せるお皿を仕舞ってある。
不用意に部屋を出て中を物色されないための設備だ。
「すみません、スーツで来るには少し弊害がありまして」
安室透として来ることはわかっていたのだ、気にする必要もない。
持っていた鞄から何やら機器を取り出した安室さんは、一通り部屋を見ますね、と断りを入れてきた。
「脱衣所の下から二番目の引き出しは、その……開けるなら、声をかけてほしいのだけれど」
さすがに"下着が入ってるんで"とは言えず、口籠る。
「わかりました」
脱衣所に開けてほしくない引き出しがあるなどと言えば、直接的な言葉を使わずに言っているようなものだ。
安室さんはすんなりと了承して、部屋を調べ始めた。
本当の身分証は、茶封筒に入れて仕事用の書類と一緒に並べて棚にしまってある。変に隠すより、紛れ込ませた方がいい。
二十分ほどかけてすべての部屋を丁寧に調べ終えた安室さんは、問題なさそうですよ、と朗らかに笑って言った。
部屋に盗聴器があったなんてことを知ったらそれはそれでショックだったので、安心した。
「そういえば、エドにはなんて紹介すれば?」
「できれば安室として。あなたが"信頼できる"と言えば、それを信じてくれる方なんでしょう?」
「わかったわ。わたしのパートナーとして参加して、わたしたち三人の警護を引き受けてくれるって伝えるわね」
「えぇ、それで構いません」
インターフォンが来客を知らせた。
モニターに映ったのはエドとヘレナ。安室さんにも会話の内容がわかるように、英語で話しかける。
≪久しぶりね、エド、ヘレナ。すぐに迎えに行くから、中に入って待っていて≫
『あぁ』
エントランスに二人が入り、ドアが閉まったことを確認してから、安室さんを部屋に残してエントランスに向かった。
軽いハグを二人とかわして、自宅に案内する。
とはいえエドは何度か仕事の打ち合わせのために招き入れているので、勝手知ったるといった様子だ。
日本に頻繁に来るようになったし、近々別荘でも購入しようかと話していたのも記憶に新しい。
どうでもいいことはさておき、部屋に招き入れて、リビングで待たせていた安室さんも仕事部屋に呼んだ。
安室さんとエドにはコーヒーを、ヘレナと自分には紅茶を。小さなバスケットにスティックシュガーとポーションミルクを入れて、お皿にクッキーを盛った。
それらをトレイの上に載せて、打ち合わせ用のローテーブルに運ぶ。
クラウセヴィッツ夫妻と向き合うかたちで、わたしと安室さんが座る。ソファに腰を落ち着けて、ようやく話ができる態勢になった。
≪エド、ヘレナ。こちらの方が安室透さん。今回わたしのパートナーとして参加して、わたしたち三人の警護を引き受けてくれるわ≫
≪随分お若いのね≫
≪はじめにわたしに接触してきた彼より随分なやり手よ。話しにくかったもの≫
≪それはそれは≫
≪安室さん、彼がエドガー・クラウセヴィッツ。今回あなた方が協力を求める、パーティーの主催者よ≫
≪はい。よろしくお願いします、ミスター≫
安室さんが握手を求めて手を出すと、エドはにこやかにそれに応えた。
ヘレナともにこやかに握手をかわす。
ヘレナはともかくとして、エドと彼のやりとりにはなぜだか肝が冷える。
お互いに信用しきっていない感じがする。
≪……僕の部下は優秀ですよ。それは覚えておいていただきたい≫
あぁ、そういうことか。
風見さんのことをちょっと悪く言ってしまったから、それを気にしているのか。
≪知っているとも。チトセが"話を聞こう"と言ったんだ、無能だなんて思わないさ≫
≪随分と彼女を信頼していますね≫
≪お互いに恩人なんだ。彼女の警戒心の強さを知っているだろう? それに引っかからなかったのなら、こちらにも協力する価値がある。私が彼女にお願いしたんだよ、"信頼できる人間を引っ張り出せ"とね。腹を見せてまで彼女の信頼を得ようとした、君たちの勝ちだ≫
知らない人だったら無視を決め込んでいたけれど。
人選はミスではあったけれど正解だった、それだけのことだ。
ヘレナはクッキーを齧り、"これ美味しいわね、どこで買ったの?"と朗らかに笑っている。お店を教えつつ、二人の腹の探り合いが終わるのを待った。
いくらかのやりとりでお互いのことは掴めたようで、次第に言葉の端々にあった刺々しさが消えていった。
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