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「穂純、今日はもう上がっていいぞ」
「! 部長……」
「今週は根詰めすぎだ。いくら決算だからって、ここまで頑張る必要ないぞ?」
「あー……すみません」
「で、どこまでやった?」
「売掛金と買掛金の残高は固めました」
「穂純お前は最高だ! 今日はもう帰って休め!」
「じゃあお言葉に甘えて」

 勤めている会社が決算を迎え、株主総会に向けて利益を計算している最中。
 会社が発行した請求書と入金記録を基に未収の商品販売代金を、会社が受け取った請求書と出金記録を基に未払の仕入代金を集計し、税務署に提出をする資料を作成する作業を引き受けて、なんとか日常業務をこなしながら一週間かけて終わらせた。取引先がやたら多いのが、この作業が大変な由縁である。
 経理部長の言うことも尤もで、疲れでしんどくなっている体に鞭打って、帰り支度を整え席を立った。
 同僚がかけてくれる声に応えながら、タイムカードをつけて会社を出た。
 会社の最寄り駅から定期券を使って電車に乗り込む。

「ふぅ……」

 ホームに着いたタイミングで到着した電車に乗り込んで、一息ついた。奥に押し込められたが、いつものことなので気にしない。
 明日の天気予報を確認して、気持ちのよい晴れとのことなので布団を外に干そうかと考える。
 人と人の隙間から窓の外の煌々と点るビルの明かりを眺めながら、ぼんやりと過ごした。
 さてそろそろか、と車内のアナウンスに意識を戻す。

『次は、米花、米花――お出口は、右側です』
「!?」

 聞き覚えのない駅名に、さては乗り過ごしたかと手元のスマホで時間を確認する。いつも降りる頃合いである。遅延の連絡はないし、あったとしてもまだ知っている駅のはずだ。
 疑問に思いながらひとまず電車を降り、近くの路線図を探して眺めてみた。

「……はぁ?」

 いつも使っている環状線の中に、降りるべき駅がない。それどころか、無楽町やら夕暮里やら夏葉原やら、知っている駅名を少し変えただけのものが見える。
 わけがわからないと思いつつ、とりあえず改札から出てみることにした。
 ICチップを使った定期券は案の定引っ掛かり、切符をなくしたと言って窓口で精算した。乗車場所は思い出せる駅名から適当に出したので、料金はでたらめだ。現金払いは普通にできたということは、通貨は同じなのだろう。自動販売機にも、紙幣も硬貨も問題なく通った。
 よくわからないと思いながら、コンビニに入って売れ残った新聞を買った。レシートに記されたのは米花駅前店という支店名。
 自分の記憶と異なる日付、近頃騒ぎにもなっていなかった連続殺人事件が解決したという記事。その解決に貢献したのが、工藤新一という高校生探偵だという見出し。

「……んん?」

 米花駅、工藤新一、探偵。――嘘でしょう。
 何かのどっきりだろうか。いや、駅の表示やコンビニを変えられるはずがない。ましてや、誰が買うかもわからない新聞にこんな記事を入れられるだろうか。それに、電車に乗っていた全員がエキストラだったのか、そもそもそれなら定期券だって通せたはずだ。
 まずい、落ち着け自分。
 帰宅途中に耳慣れない駅名を聞いたせいで動揺していたが、ここまで単語を並べられたらわかる。ここは"名探偵コナン"の世界かもしれない。……そんなわけがあるか。
 落ち着かない頭をどうにかするべく、深呼吸をする。
 混乱と動揺で思考がまとまらないけれど、ひとまずここが異世界だということで調べよう。
 夜も七時を回れば図書館は空いていない。近くのネットカフェに入り、パソコンで直近の社会情勢を調べた。
 当然ながら"名探偵コナン"という漫画は存在せず、古いニュースには工藤新一やら服部平次やら、知った名前が事件に関わった人間としてちらほら現れる。怪盗キッドも世間を賑わせているようだ。
 スマホで知人に電話をかけてみても、繋がらない。

「充電器とかは同じなのに。あぁでも、USBとかスマホとか、普通にあったし……」

 とにもかくにも休める場所がほしい。お腹だって空いたし、シャワーを浴びたい。
 安いホテルを探そうと、米花駅前に戻ってきた。
 スマホと免許証、保険証と定期券は鞄の中敷きの下に入れた。見えることはないと再確認してから、交番に近づく。

≪ですから、米花シティホテルの場所を知りたいんです≫
「えええっと……すみません、僕は日本語以外は……」

 ドイツ語で困ったように問いかける夫婦と、同じく困ったように答える警察官。
 はて、なぜ今ドイツ語で話したことが、あまつさえその内容がわかったのか。疑問には思うが、あのまま続けられていてはわたしが訊けない。

≪あのー、どうされましたか? その警察官には、言葉が通じていないみたいですけど……≫

 ほろりと滑り落ちたドイツ語に、内心で首を傾げる。
 考えるのは後だ、ひとまず彼らの悩みを解決して安いホテルを教えてもらわないと。
 わたしの言葉を耳で拾ったドイツ人らしい夫婦は、勢いよく振り返ってこちらを見た。

≪あなた、ドイツ語がわかるの!?≫
≪ええ、まぁ……≫
≪すまんが、米花シティホテルの場所を知らないか≫
≪あー……ちょっと待ってください≫

 米花シティホテルも何も、この辺りの地理に明るくない。
 ここは通訳をした方が無難かと判断して、困った顔のまま夫婦とわたしを交互に見る警察官に向き直る。

「おまわりさん、この方たち、米花シティホテルに行きたいみたいなんですけど……」
「米花シティホテル? あぁ、それならこっちの出口にはないよ。線路の下を通って、大通りを少し行かないと……ちょっと待っててね、地図を描くから」

 訊きたいことがわかれば丁寧に教えてくれるらしい背中に、重ねて質問をする。

「あの……そのホテルって、安かったりします?」
「素泊まりなら安いよ、よくサラリーマンが出張に使うしね」
「そうですか……」

 財布の中は寂しくなるが、この非常事態には仕方がない。
 よし、行き先は決まった。あとはドイツ人夫婦を行き先が同じなんですと誘って、案内すればいい。

「わたしもそこに泊まりたいので、案内しましょうか」
「いいのかい? それじゃあ、頼もうかなぁ」

 最初に困っているなら助けますよという雰囲気で話しかけたせいか、すぐに信用して地図をくれた。
 お礼を言って、ドイツ人夫婦に声をかける。

≪米花シティホテル、でしたよね? いま教えてもらいましたから、一緒に行きましょう。わたしもそこに泊まるから≫
≪本当かい? なんと幸運なことだ、君が女神に見えるよ≫
≪ありがとう、お嬢さん!≫

 警察官が丁寧に書いてくれた地図で問題なく米花シティホテルに着くことはできた。
 素泊まりもできるということで、手続きを踏む。さすがにホテルともなれば英語が話せるスタッフもいたようで、チェックインは問題なくできたようだった。クロークからも、あらかじめ届けていたらしい荷物をきちんと受け取っている。
 近くの遅くまでやっているドラッグストアで、化粧品を買ってくるべきか。スタッフに出かけてくると告げて、部屋番号だけ確認したキーを預けた。

≪待ってちょうだい≫

 自動ドアに向かって歩き始めたわたしの足を止めたのは、夫人だった。

≪伝わらない言葉がありましたか?≫
≪そうじゃないわ、本当に困っているところを助けていただいたから、何かお礼がしたくて。食事はいかがかしら≫

 最上階にレストランがあるのよ、と教えてくれる夫人だけれど、この道案内にそれほどの価値があったとは思えない。
 それに、食事に行っていたら買い物にも行けない。

≪お気持ちだけで結構です。わたし、少し買い物をしてこないといけなくて……≫
≪それならその買い物を終えてから。ねぇ、エド≫
≪そうだな、君さえよければだが……≫

 正直に言って、食事に誘ってもらえたことはありがたかった。出費を少なく抑えたい現在、願ったり叶ったりである。
 けれども、化粧は落として寝たいし、明日外出するならもう一度化粧をしたい。そのためには洗顔もスキンケアも重要なのだ。
 待っていてくれるというのなら、お世話になってしまおうか。

≪……それじゃあ、すぐに買い物を済ませてきます≫
≪! よかったわ、それじゃあ最上階でお待ちしていますわね≫

 夫人はとても嬉しそうで、先ほどまで遠慮するわたしと自分の妻を苦笑して眺めていた夫君が、ほっとした顔をした。
 もしかしたら、旅行に来てみて母国語があまりにも通じず、そんな中に母国語で話しても普通に通じる存在が現れたことが嬉しかったのかもしれない。
 手早く買い物を済ませて、部屋に荷物を置いてからルームキーと身分証明書を抜いた財布だけを持って部屋を出る。エレベーターを使い最上階まで昇ると、先ほどの夫婦が約束に違わず待っていた。

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