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煮込み料理で失敗をすることはなくなったのか、ビーフシチューはとても美味しく仕上がっていた。
付け合わせのサラダやデザートのフルーツ入り牛乳寒天も出されて、贅沢な夕食だった。
帰っている間のことを伝えて、こちらでは何も変わりがなかったことを聞いた。哀ちゃんに"スパイみたい"と呆れられたのには苦笑いを返すしかなかった。
どうやら博士には、単に実家に帰省していたのだと話が伝わっているらしい。組織に関わってしまったことで、下手に帰れなくなってしまったのだということも。博士が席を離れた隙に、死亡という扱いになっていたことを伝えた。
博士と哀ちゃんは楽しそうだったけれど、コナンくんたちはあまり会話に入ってこなかった。
食事を終えて、哀ちゃんとはまた遊ぶ約束をして、コナンくんと沖矢さんと一緒に阿笠邸を出た。
無言のままマンションに帰り、二人に盗聴器の有無を調べてもらった。
「……大丈夫そうだな。安室君が仕掛けていったのではないかと心配していたんだが」
赤井さんは溜め息をついて、伏せていた目を開けた。
書斎でコーヒーを二人分淹れて、リビングに持っていく。ソファに座って待っていた二人の前に置くと、お礼を言われた。
「千歳さん、安室さんはやっぱり……」
コナンくんは気遣わしげな表情で、言葉を濁して問いかけてくる。
深刻に感じさせないように、笑ってみせた。
「そばにはいられないって。結局、自分が一番傷つかない言葉を選んじゃった。後のことは赤井さんに頼んであるから頼れ、って言われたわ」
「……そうか」
「しばらくは翻訳の仕事しか受けない。自由に動けるようにしておくわ。わたしの方でも、何かありそうならコナンくんに連絡する」
「うん、お願い」
赤井さんも、何を考えているかよくわからないところがある。
良くも悪くも上手に隠し事ができていないコナンくんを一番に信じるべきだろう。
「千歳。この連絡先を記憶できるか」
赤井さんに手渡されたメモには、携帯の電話番号が書いてあった。
「……誰の連絡先?」
「赤井秀一だ。別人の名前でなら登録してもらっても構わない」
「山田太郎にしておくわね」
赤井さんではなくコナンくんが目を剥いた。
「あからさま過ぎるよね!?」
「冗談よ。ジョン・ドゥでいい?」
「大差ないよ!?」
うーん、赤井さんだってことを忘れない名前。
何か関連づけておかないと誰だったかわからなくなって消してしまいそうだ。
はた、と思い至る。
「……池田さんにしておくわ」
「由来がさっぱりわからないけど、それならいいと思うよ」
苦笑いするコナンくんの了承も得られたので、それで登録しておいた。
赤井さんはキッチンのシンクの上でメモ用紙を燃やすと、コナンくんをあまり遅くまで出歩かせられないからと帰っていった。
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昨日は夕飯の準備の必要もなく冷蔵庫が寂しい状態のまま放置してしまった。
買い物に行かなければと思い立ち、出かける準備をする。
バッグを持って、服に合わせたパンプスを用意して、さて行こうかと片足を通したところで、インターフォンのチャイムが鳴った。
「タイミング悪いなぁ……」
独りごちながら靴を脱ぎ、モニターをつける。
映っている来訪者の姿を見て、どくりと心臓が強く跳ねた感覚がした。
長い金髪、サングラスの奥にうっすら見える凛々しい目。整った顔立ちとスタイル。――ベルモットだ。
「……どちらさま?」
名前を問うと、ベルモットと思しき女性は彩られた唇で弧を描いた。
『ハァイ、キティ。ベルモット、って言えば伝わるのかしら? お話があるの』
モニター越しでもわかる艶めいた声が、こちらが事情を知っていることをわかっているような口振りで対話を求めてきた。
どうしよう、降谷さんはもういない。――赤井さんを呼ぶ?
いいや違う、考えろ、ベルモットの目的は?
『バーボンのことよ。家に入れてなんて言わない。楽しくショッピングでもしながらならどうかしら』
あの組織のメンバーは目立つ行動を嫌う。
街中でなら、少しは安全だろうか。
「……そこで待っていて」
モニターを切って、すぐに赤井さんに電話をかけた。
赤井さんは短いコールで応じてくれた。
『どうした、千歳』
「ベルモットが来ていて、バーボンのことで話があるみたい。すぐに来られる? 見つからないように尾けてきてくれない?」
『……すぐに警護に向かう』
ぶつりと通話を切られた。
赤井さんが来てくれるなら、安心だ。危なくなれば、おそらくは沖矢昴として、通行人の視線を集めるような行動を取ってくれる。
パンプスを履き直して、自宅を出た。
エレベーターで一階まで下りると、退屈そうに腕を組んで待っていたベルモットに迎えられた。
「いい子ね、キティ。逃げない方が身のためよ」
くすくすと笑うベルモットの表情からは、何を考えているのかなんて読み取れない。
「遠いからタクシーを呼んだの。銀座なんかどうかしら」
提案のかたちを取ってはいるけれど、こちらの意見を聞く気がないことだけはわかった。
逆らえば痛い目に遭うのは火を見るより明らかだ。こんなところでリタイアするわけにもいかない。
「……わかったわ」
溜め息をついて、誘われるままにタクシーに乗り込む。
視界の端にちらついた沖矢さんの姿に安心しながら、行き先に銀座を指定するベルモットの横顔を眺めた。
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