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『次は、米花、米花――お出口は、右側です』
すっかり聞き慣れた駅名に、安堵の息を吐いた。
電車を降りて、改札への道を探す。半年前に一度戸惑いながら通った道なんて当然覚えていなかった。
どうにか辿り着いた改札の窓口で適当に料金を支払い、出ることができた。
「千歳」
周囲の喧騒に紛れて名前を呼ばれたのがわかって、そちらを振り返る。
零さんが眉を下げて微笑み、壁際に立っていた。
歩み寄ると、キャリーバッグを引き取られる。
「……お帰り。今は2月28日の午後5時半です、無事に帰ってきましたね」
「ただいま」
「疲れたでしょう。ひとまず帰りましょうか」
零さんはわたしの手を取って歩き出した。
これから零さんは、わたしに戻ってきた理由を聞いて、そしてわたしを突き放す。
その時間を少しでも先延ばししたくて、足取りが重くなる。けれど駅に近いマンションにはすぐに着いてしまって、住み慣れた部屋に戻ってきた。
零さんは部屋の盗聴器をチェックしてから、キャリーバッグを寝室に運んでくれた。
リビングのソファにバッグを置いていると、寝室から零さんが戻ってきて、腕を組んで寝室のドアの横の壁に背をつけて立った。
「……どうして戻ってきたんだ?」
責めるわけでもない、単純な疑問のような問いかけだった。
零さんの目をまっすぐに見て、質問に答える。
「詳細を聞くことができないような事件に巻き込まれて、死んだことになってた。娘によく似た別人として両親に接触して、それを聞き出せたの。もう、向こうでは死んだことになってるんだって思ったら……わざわざそれを取り消すのも大変そうだなって思って。働くのも難しそうだし、なんていうか、こっちでちょっといいマンションに住んで車もローンなしで買えちゃって、疲弊しながら安月給で働くのがいやになっちゃって」
嘘はつかない。でも、わたしを突き放す理由をあげる。
嘘でも、わたしのためを思ってのことでも、零さんの口から"お前を愛せなくなった"だなんて聞きたくないから。
「……そうか」
零さんは残念そうに相槌を打った。
きっと、零さんを理由にしてほしかったのだと思う。でも、そうしたら、わたしを愛せなくなったと口にするんでしょう。
「両親には、生命保険金を請求するように誘導して手助けだけしてきた」
「……それで、ここで一生を過ごすことに決めたのか」
「うん」
肯定の返事は、ひどく穏やかなものだった。
零さんの震える声と、正反対に。
「確かに、半年も行方不明で、社会復帰には苦労するかもしれない。だとしてもここに戻ってこない方が……危険に近いことより、ずっといいだろ」
わたしを引き留めようとしたくせして、ひどいことを言う。
本当はわたしの真意なんて見抜かれていて、これも本当の理由を吐き出させるための挑発なのだろうか。
でも、嘘だろうとは言われなかった。
「いいの。……いいの……これで」
わたしが完全にいなくなれば、一層零さんの立場は悪くなる。
それだけは、なんとしてでも避けたかった。
零さんは組んだ腕を解いて、拳を握り締めた。
「それなら、俺は――僕は、あなたの傍にいることはできません」
震えた声が、苦しげに歪められていた表情が、"安室透"に切り替わると同時に落ち着いたものになる。
零さんは、本音を、感情を隠すことを選んだ。
「普通より危険な状況にいることは承知の上で、生活水準を落としたくないから戻ってきた。そういうことでしょう」
自分でそう受け取ってもらえるように話したのに、改めて突きつけられるとじくじくと胸が痛む。
笑うことには慣れた。嘘をつくことには慣れた。
死にたくない、苦痛を味わいたくない、そう自己の保身に走っていた思考が、"降谷零という人間を死なせたくない"と考えるように変わってしまった。
そうね、と一言、肯定の言葉を返す。
「不可抗力でのあの状況だったから、近くで守れるように立ち回りました。ですが、そんな理由で戻ってきたというのなら、僕には待ってもらうことしかできません」
うそ。待たせてなんてくれないくせに。
「待たせてくれるの?」
「えぇ。あなたを好いていることに、変わりはありませんから。ですが、今は僕の傍にいること自体が危険です。あとのことはなんとかします」
「わかった」
物わかりの良い言葉を返すと、零さんは眉を下げて泣き出しそうな顔をした。
ねぇ、そんな顔をしないで。自分で選んだんでしょう。わたしを守るために、傷つくと決めたんでしょう?
覆さないのなら、零さんが一番言いたくないであろう言葉を言わせないわたしに免じて、せめてそんな表情は隠してほしい。
願いは届かず、零さんは捨てられた子犬みたいな弱りきった顔をした。
「待てなくなったら、それはそれで構いません。貴方との約束を破った警察庁は、きっと貴方にとって信用できる相手ではない。赤井に事情を話してあります。手を貸してもらえるように頼んでもありますから、頼ってください」
「えぇ」
頷きなから、彼に近づいて右手を取った。
わたしを守って傷ついた手。ここが現実だと、教えてくれた手。
指を絡めて、体温を確かめるように手のひらを合わせる。
この温かい手が、熱を失うことのないように。どんなに時間がかかっても、どれだけ危険な目に遭おうとも。
これからわたしのすべてを懸けて、彼の"ミス"をなかったことにしてみせる。
「……しばらくさよならね、降谷さん」
顔を見上げて笑いかけると、降谷さんは凪いだ顔をした。
安堵と寂寥感の滲む表情に、ひどく心がざわついた。
「あぁ、そうだな……穂純さん」
絡めた手の間から、するりと手を抜かれる。
力なく落ちた左手は、降谷さんを引き留めたくてたまらない。
去っていく背中を見つめて、彼が出ていった玄関のドアが閉まるのを見届けて、その場に座り込んだ。
だめだ、泣いたら。自分で選んだくせに、まだ怖気づいてはいけないのに。
嗚咽を漏らさないように口元を押さえるのに必死で、溢れる涙をどうにかすることはできなかった。
ぱたぱたと落ちる涙が、膝の上に落ちて肌を濡らす。
彼のそばに居たいと願うのなら、死にたくない、痛いのはいや、それらはもう通用しない。
「……さよならね、臆病なわたし」
きっと死んでも後悔することはないだろう。
もっと一緒にいたかったとか、本当のことを伝えたかったとか、自分の行動に後悔はあっても。彼のために死ぬことに、後悔を覚えることはない。
一頻り泣いて、いくらかすっきりした。
未練は捨てた。覚悟もできた。だからもう、残すものはなにもない。
スマホを取り出して、この世で最も親しい友人の番号を呼び出した。
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