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無性に泣きたくなる夜だった。
ここに戻ってくるように、いっそ快楽に依存してしまえとすら言いたげな愛撫に、何度も意志が揺らぎそうになった。
コナンくんの推理の通りなら、帰ってくるまでに自由に動ける時間は短くて二日ほど。ひとつずつ気になっていたことを諦めて、残ったのは両親に対する心配だった。せめて、それだけは確かめたい。
そんなたったひとつの願いさえ飲み込まんとするように与えられる愛情と快感の濁流に翻弄されて、出ているのは生理的な涙だと思い込みながら、実際には泣いていたのかもしれない。
起きればもう朝とは言い難い時間だった。
絡みついた温かい腕を名残惜しく思いながら、抜け出そうと身動ぎした。しかし腕の力は緩まず、それどころか項に額を擦りつけられる感触があった。
「……起きてるでしょ」
「あぁ。おはよう」
悪びれもしないけろりとした声に溜め息をついて、枕元に転がっていたミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばした。
渇いた喉を潤すことまで妨げようとは思っていないのか力の緩んだ腕から抜け出して、体を起こす。
水を飲んで一息つくと、背後からお腹に褐色の腕が絡んできた。
「気は変わらないのか」
肩に顎が載せられて、耳元で心地の良い低音が発される。
ずっとこうしていてほしい、なんてバカみたいなことを考えて、それも有り得ないのだと自分で自分を戒めて。
お腹に触れる零さんの手の甲を撫でながら、頷いた。
「……うん」
「まぁ、虫除けはしたからいいか」
胸やお腹に散らされた赤い花を指でなぞられて、体が震える。
零さんは少しの間無言でわたしを抱きしめていた。背中全体に触れる体温が離れてしまうことが寂しくて、拒むことはできなかった。
「……何か食べないとな」
「ん」
背中に触れていた熱が離れていく。名残惜しく思いながら、渡されたパジャマに身を包んだ。
寝室を快適に保っていたエアコンと加湿器を切ってリビングに行き、お湯が出るように給湯器のスイッチを押す。
昨夜さんざん掻き回された体が怠くて、頭がぼーっとしてしまう。
「千歳。シャワーは一人で浴びられるか?」
「大丈夫……」
ソファで数分待つと給湯器が鳴り、お湯が出るようになったことを知らせてきた。
食事の準備を零さんに任せて、着替えを用意してシャワーを浴びた。
髪を乾かしてリビングに戻ってみれば、すっかり食事ができるようにテーブルが整えられていた。
おいしい料理に舌鼓を打って、空いていたお腹を満たして。
洗濯機を回しつつ、歯磨きをして化粧をして身なりを整えたところで、零さんに"話がある"と改まった様子で言われた。
「どうしたの? そんなに改まって」
ダイニングテーブルの上で手を握り合わせ、怒られることを予感している子どものような不安の滲んだ表情を浮かべる零さんに問いかける。
零さんと向かい合うようにして座ると、落ち着いて話ができる状況になったと判断した零さんは俯けていた顔を上げた。
「千歳に、謝らなければならないことがある」
「……なぁに?」
「預かっていた物についてだ。……約束していただろう、"帰る方法がわかったら返す"と。だが……返せる物が、もうこれしかないんだ」
そう言いながらテーブルの上に置かれたのは、元の世界で取得した運転免許証だった。
赤井さんに聞かせてもらった音声のとおり。定期券と時刻表がなくなって、健康保険証とカード類は切り刻まれて。零さんが引き上げてくれたこれ以外は、本当に返せる状態ではないのだろう。
「元々帰るつもりでいて、帰ったら必要になるからそうお願いしていたのだし、もう返してもらわなくても大丈夫よ?」
「……だが」
「もういいの、本当に。零さんはちゃんとわたしの語学力の危険性を教えてくれていた。それだけで十分。零さんが謝る必要なんてないの」
きっとこれも、誰かが"正しい"と信じてやったこと。
それで零さんが苦しむ必要なんてない。どうせ最後にする気なら、楽しい時間にしてほしい。
「ね、零さん。気にしなくていいから」
「……悪い」
「持っていて吉と出るかもわからないけれど……一応返してもらっておくね」
「あぁ」
運転免許証を受け取って、鞄の底に隠した。
お金は多めに持ったし、古いスマホも自宅と実家の鍵も持った。小さめのキャリーバッグに最低限の着替えと日用品を入れて、数日過ごせるようにした。
室内に洗濯物を干してから、サングラスと帽子を身につけて、零さんと連れ立ってマンションの外に出た。
「電車に乗るのは本当に久々なの。零さんに付き添ってもらえて良かった」
あえて明るい調子で言って、最後でないことを信じているのだと演じた。
零さんは外だからと穏やかな笑みを浮かべながらも、言葉は少ない。
米花駅に着いて、券売機で切符を買った。迷いなく進んでいく零さんの後をついていって、目的の内回り電車が止まるホームに向かう。
次の電車を見送って、その後やってくる電車に乗ればいい。人混みの中で不安に思っていると、零さんに手を握られた。
こんな状態で、果たして帰宅ラッシュの電車に上手く乗れるのか。ここにきて怖気づいてしまう。
「……やめておきますか?」
気遣わしげな問いかけに、無理矢理首を横に振った。
目的の電車が目の前に滑り込んできて、ドアが開くと人が次々に降りてくる。人が捌けたところで、零さんに手を引かれながら電車に乗り込んだ。
平日の午後三時の電車とあって、さほど混んではいない。手摺に掴まりながら、キャリーバッグを支えた。
ドアが閉まって、発車のベルが鳴る。ゆっくりと電車が走り出して、どくどくと心臓が跳ねるのがわかった。
「千歳なら大丈夫だ。……信じて、待ってる」
電車の揺れる音に紛れるような囁き声が落とされて、隣に立つ零さんの顔を見上げた。
口角を上げて、にこりと笑っているのに、その眼は泣きそうに揺らいでいる。
「……待ってて」
呟くように返事をして、瞬きをした瞬間――目の前から、零さんが消えていた。
「……っ」
息を呑んで、挙動不審にならないように窓の向こうを眺める。
大丈夫、誰も気にしていない。そういう風に、なっている。
『次は、日暮里、日暮里――お出口は、左側です』
毎朝の通勤で聞き慣れていたアナウンスが耳に、見慣れていた景色が目に飛び込んできた。
ここからは一人で、わたしがいなくなってからの顛末を調べ、両親が元気でいるかを確かめなければならない。
電車が停止した。細く息を吐いて、人の流れに乗ってホームに降り立つ。
懐かしいはずなのに、疎外感を覚えてしまう。帰ってきたはずなのに、安心感がない。
零さんの存在が、この半年の間に自分の中でどれだけ大きなものになっていたかを自覚する。……こんなときにそれがわかったところで、虚しいだけだというのに。
すっかり忘れてしまった改札への行き方を、案内板を見ながら思い出す。
キャリーバッグの持ち手を握り締めて、怖気づいて竦む足をどうにか踏み出した。
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