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≪エド? チトセよ。どうかしたの?≫
このタイミングでのエドからの電話に少し身構えてしまう。けれども、零さんから話がいったとは、考えにくい。
組織から隠してわたしを逃がすのなら、FBIの手を借りるのが確実だ。零さんが直接エドと連絡を取る理由はない。
『チトセに忠告をしておこうと思ってな』
予想通り、まったくの別件のようだった。
≪? 何かしら≫
『ロシア語とギリシャ語を使う麻薬の売人がいても、関わらないように。奴らは危険だ』
エドの言葉には、覚えがあった。
FBIが日本での捜査許可を得て捜査し、わたしに協力を求めてきた事件。その主犯が、ロシア語とギリシャ語を使う麻薬の売人であるマフィアだった。
何か、関係があるのだろうか。
≪わざわざエドが忠告してくれるってことは、相当ね。気をつけるわ≫
『3月の頭には日本に入るようだ。普通に生活していればまず関わることはないと思うが……』
≪わかってる、何を聞いても黙っておくわ≫
『そうしておくれ。近々翻訳の依頼をするよ』
≪いつも助かるわ。じゃあまたね≫
エドはわたしが普段どのようにして警察に協力しているか知っている。それでいて忠告してくるのなら、本当に関わらない方がいいのだろう。
3月なら戻ってきているはずだし、気をつけようと思いながらスマホをテーブルに置いた。
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2月24日、仕事の調節をしながら日中を過ごした。
やることは予定の組み替えだけで頭を使わなくていいから、存分に考えることができた。
行方不明という扱いになって、探されているとして。それで、見つかるのが怖い。
零さんのように、わたしの不可解な体験を信じてもらえるとは限らないのだ。だからといって探されている間はどこにいたのか、何をしていたのか、なんて答えられるはずもない。
正直に言えばおそらく精神病院行き、嘘をついてもきっと矛盾を突かれて、良くて記憶混濁扱いにされ、悪くて何か事件に関わったと疑われる。
嘘をつくことには慣れたけれど、戸籍をつくるような大嘘はもう懲り懲りだった。
見つからないように、両親がどんな様子かを確認して。それで、帰ってくるのがいいのだろう。
職場のことは、もうどうでも良かった。きっと代わりの人が補充されて、もう確認するすべはないけれど、就業規則の内容次第ではとうに解雇されているはずだから。
クローゼットから帽子もサングラスも引っ張り出したし、持ち帰る物もお金も用意した。
あとは、帰るだけ。
日が暮れて、洗濯物を取り込んだりお風呂の準備をしたりしていると、インターフォンのチャイムが鳴らされた。
モニターで来訪者が零さんであることを確認して、エントランスのドアを開けて。数分待つとドアがノックされ、やってきた零さんを迎え入れた。
零さんは簡単に部屋のチェックをすると、持ってきたスーパーの袋を調理台の上に置いた。
「悪い、遅くなった」
がさがさと袋の音を立てて買ってきた物を取り出していくのを眺めながら、カウンターに頬杖をつく。
「大丈夫。今日はなに作るの?」
「親子丼」
「ミツバは?」
「載せる」
「完璧」
零さんはふっと笑って、調理に取りかかった。
お米を研いで早炊き設定にした炊飯器にかけてから、買ってきた材料を取り出す。
鶏肉を捌いて、玉ねぎを薄切りにして、ミツバも大雑把に刻み。包丁捌きに見惚れていると、"見過ぎだ"と笑われた。
フライパンで出汁と調味料を煮立てて、ミツバ以外の切った材料を入れて少し煮た後、溶き卵を回し入れて。
少し遅くなったから、短時間でできるものを選んでくれたのだろう。
いい香りが鼻腔を擽り出した頃に、ちょうどご飯も炊き上がった。
「器出してくれるか? それと、テーブルを拭いてくれ」
「はぁい」
簡単な手伝いだけさせてもらって、食事の準備を整えた。
ほかほかと湯気の立つご飯の上に、とろりとした卵に包まれた鶏肉と玉ねぎがかけられる。最後に彩りでミツバが添えられた。
「箸だと食べにくいか。レンゲは?」
「あるよ。ちょっと待ってね」
二つのどんぶりをダイニングテーブルの上に置いて座る零さんにれんげを手渡して、自分も椅子に座った。
手を合わせてから、れんげで一口分を掬って息を吹きかけて少し冷ます。
零さんは男らしく掻き込むようにして食べるけれど、わたしはそうもいかなかった。
いつも早々に食べ終えてしまう零さんは、頬杖をついて楽しそうにわたしが食べる姿を眺める。もうすっかり慣れてしまったけれど、今夜ばかりは、視線に含まれる熱を無視することができなかった。
「零さん。見過ぎ」
照れ隠しに素っ気なく言ってしまった。零さんは気を悪くした様子はないけれど、寂しそうに笑んだ。
「……最後かもしれないんだから、いいだろ」
「そんなわけないじゃない」
「あぁ、……そうだな」
安心したような笑みは、わたしが何も知らないことに対してのもの。
赤井さんの頭に風穴を開けてほしいわけではないから、それでわたしも安心できた。
片づけをしている間にお風呂に入ってもらって、入れ替わりで自分も体を綺麗にした。
髪を乾かそうと洗面所に立ってドライヤーを手に取っていると、零さんがドアを開けて入ってきた。背後に立ったかと思えばドライヤーを取り上げられて、湿ったままの髪に触れられる。
「乾かしてくれるの?」
「千歳はのんびり屋だからな。もう待てない。……今夜俺を泊める意味は、わかってるだろ?」
鏡越しに視線がぶつかり合う。手に取った髪に口づけられて、神経が通っているわけでもないのにむず痒いような感覚がした。
予感はしていた。期待もしていた。零さんが今夜を最後にする気なら、抱かれるのだろう、と。
後悔して、苦しんで、それでも最後まで甘やかそうとする程度には執着されているのだとわかって、こちらは安堵してしまう。
「……お手柔らかにお願いします」
「寝過ごしたら困るからか?」
「ご名答」
「千歳を困らせたいわけじゃないからな。明日はきちんと起こすよ」
"お手柔らかに"という願いに対する肯定の返事はないまま、ドライヤーのスイッチが入れられた。
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